【越智正典「ネット裏」】ロッテの新二軍監督、山下徳人の恩師、和歌山県立箕島高監督、尾藤公(故)は有田や湯浅の町の人々から「とんちゃん」と呼ばれ、親しまれ慕われて来たが「野球はゴールにボールを入れると点になるゲームではない。人間が本塁を踏んで1点を貰えるんや」。山下は人間野球を学んだ。

 山下の先輩になるが、箕島の2年生秋にベンチ入り、三塁コーチ、3年春に助監督の中本康幸は「先生は闘病中、いつも“わしが監督をやれたのは箕島を応援してくれたみんなのお陰や”。そこで“そやけど、先生、やっぱり一番は奥さんのさとみさんのお陰やで…”というと、先生は“ピンポン!”と大笑いをされていました」。

 ロッテ二軍はことし、ちょっぴり変わり始めている。試合当日の朝、ロッテ浦和球場を訪れると、選手たちがまだ、口をもぐもぐさせている程度だが、行き交う関係者に挨拶をし始めている。山下が打撃練習に投げている。

「前とちがいますか」。二軍バッテリーコーチ、福沢洋一が私の顔をのぞき込んだ。「新監督の人柄が少しずつ沁み透り出したんですよ」。福沢は当時の監督、有藤通世に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれると、九州産大を中退。ドラフト外で飛び込んだ。投手小宮山悟の参謀、出身は筑豊直方、川筋男はよか男である。

 山下徳人は1965年10月11日、有田市の北隣り、現海南市で生まれた。塩津幼稚園、塩津小学校、下津二中。あの島本講平の後輩である。他県から引っ張って来た選手ではない。尾藤はふるさと野球である。

 山下が中二のときに箕島は春夏連覇。公立校の連覇なのだから凄い。センバツで勝ったあと、夏をめざしてプッシュバントの練習。物々しい強化練習ではない。中本が町の食堂から業務用のトマトケチャップの空き缶を貰って来た。尾藤がこの辺がよかろうと、投、一、二間に缶を置いた。選手は缶をめがけてプッシュバント。当たるとカーン。それがたのしくて夢中になった。それは戦術というよりナインの結集力の祭典であった。その夏、箕島を見に行くと、尾藤はいうのであった。「康幸(前記中本・現湯浅町給食センター長)が湯浅町役場に就職が決まった。地元に残ってくれる。こんなにうれしいことはない」

 山下は81年箕島高に入学。「無事入学出来ました」。今でもいうが無事というくだりに純な思いがこめられている。

 箕島を卒業した84年、彼は監督高橋昭雄の東洋大へ。186センチ。神宮球場の左打席で彼のバットが一閃したのは4年生になった87年10月1日、対青山学院大の9回裏。逆転サヨナラ3ラン。部は優勝し、東洋大創立100周年に花を添えた。東都大学連盟事務局長、白鳥正志は「彼はふだんから部員の世話をよくしていましたよ」。その秋、5位指名でロッテに入団した。 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)