【越智正典「ネット裏」】東京六大学が開幕した。あの高々と舞い上がるホームランでファンを湧かせた大下弘を思い出した。神宮外苑元苑長鈴木幸市から青バットの大下の少年野球教室の話を聞いたばかりだったからである。大下弘は1942年(昭和17年)、明治大学予科入学だが神宮球場で試合が出来たのは1試合だけで、六大学リーグ戦には一度も出場することなく、学窓を去っている。大下は22年、日本統治下の台湾高雄で生まれた。母一人子ひとり。ときどき甘えん坊の匂いがしたのは母親がやさしい人であったからであろう。彼女は愛河河畔で料亭を営んでいた。彼は海外雄飛の子弟を預かる高雄商業へ。左腕エースで4番。4年生になった40年、台湾予選に初陣。新設校なので5年生はいない(当時の中等学校は5年制)。1回戦の対高雄中(高)で奪三振16。2回戦は対強豪嘉義農林。4回、台北帝大の右翼に本塁打。記念すべき一打だったが降雨。再試合で敗れ、甲子園へは行けなかった(西脇良朋氏)。その夏、砂糖、木材を扱っていた大正興行が中心の「全高雄」が都市対抗全国大会出場を決めた。部下の慰労で来亭した常連客の監督、桜井寅二(旧中京商、慶応大、捕手)に母親が頼んだ。

「息子を連れて行って下さい。なんといっても都(みやこ)です。一度見せてやりたいんです」。桜井は母親に心打たれて大下を打撃練習投手でメンバーに加えた。忘れられない体験である。大下は西鉄時代、進んで打撃練習で投げている…。

 杉並区和泉の明大合宿所に入った彼は中学の先輩がいなかったので苦労した。球ひろいの年季があけ、打ち出すと、打球は右翼うしろの松林上空を飛んで行った。が、叱られた。

「フライでは勝てん。ゴロを打て」。ポンちゃんという渾名がついた。「ありあー、ポンポン式高射砲ぢゃ。いくら打っても敵機に当たりあーせん」。予科2年で学徒出陣。埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校での教育訓練。45年8月15日、北海道八雲の航空隊で終戦。すると大下は戦闘機隼に飛び乗り豊岡に着陸。破天荒な復員である。一日でもはやく復学したい。母の安否を知りたい。わかるのはそれこそ“なんといっても都”である。明大野球部は9月30日、はや練習を始め、11月4日、占領軍に接収されていた神宮球場で、米第71野戦病院対第1303工兵隊の試合前にOB対現役戦を挙行した(田中茂光氏)。ことし殿堂入りした明大先輩、松本瀧蔵が占領軍と接渉し、ここに押し込んだのだ。伝え聞いた、法政大の藤田信男が試合球を届けている。現役4番大下は右翼フェンス直撃の三塁打。見に来ていた明大先輩、復活プロ野球の新セネタースの横沢三郎が誘った。大下は即、承知した。母親が引き揚げて来たときの生計を考えたのだ。この試合が先例となって11月18日、全早慶戦が挙行された。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)