【岩村明憲 ガンガンいこう!(7)】宇和島東高校3年時に全日本選抜で4番を務めた僕は、フィリピン遠征でかのベーブ・ルースも本塁打を打ったとされる球場でアーチをかけるなど、しっかりと存在感を示しました。

 その球場で本塁打を過去に打った選手は多くいましたが、場外弾となったのはベーブ・ルース以来2人目と、大舞台でパワーをアピールできたこともうれしかったです。

 それまでの僕はヒザが悪いことがネックとされていて、捕手というポジションもあり、獲得に前向きな球団は少なかったように思います。それがあの一本で流れが変わり、ヤクルトを含め、全球団が興味を持ってくれるようになりました。

 そして迎えた1996年のドラフトでヤクルトから2位指名を受け、入団。すぐにプロの世界の厳しさを思い知らされました。

 高校時代のポジションである捕手から三塁手としてスタートすることになり、高校卒業前に行ったプロ1年目の春季キャンプでは、打撃練習を一回もやらせてもらえませんでした。体力強化と守備の上達を目的に、来る日も来る日も球拾いと守備練習の日々でした。

 夜間練習では先輩たちのティー上げと、打撃の“だ”の字もありません。内心では「バット振りてーー!」と叫んでいたし、ジレンマも抱えていました。

 その思いが少し解消されたのが、開幕前に東京ドームで行われていた新人戦でした。96年ドラフト入団といえば、他球団選手の顔ぶれはアトランタ五輪組の松中さん(ダイエー)、井口さん(ダイエー)、他にも小笠原さん(日本ハム)などそうそうたるメンバー。その中で、打撃練習を全くやってない僕が出るわけだから気後れしたのもありましたが、結果は1安打、1打点。あれはうれしかったです。

 その後はファームのあった戸田の土手で球拾いと雑草むしり、バットを振り込む日々が続きました。さすがにふてくされた顔をしていると、よく怒られましたね。

 一方で打撃では一日、ティー打撃を連続2~3箱こなすのが普通でした。最後には握力がなくなってね。でもこれも18~19歳のころにやっといて良かったです。プロ入り後、少したつと頭でっかちになって、こういった練習はできなかったかもしれません。

 とにかく振ることでしかつかない体力はあります。その点でもやっている時はしんどかったけど、地道にコツコツと取り組んだのは正解でした。

 当時を振り返ると二軍監督の八重樫さんと守備コーチだった大橋さんには本当にお世話になりました。大橋さんには通常のメニュー以外に特守として、よく守備練習にも付き合ってもらいました。

 そして、なかなか実戦の機会がなく、もんもんとする僕に絶好の機会が訪れました。