【越智正典「ネット裏」】榎本喜八が殿堂入り(エキスパート部門)した1月18日、正式発表後、真っ先に“師匠”荒川博に電話をかけてきたのは“弟弟子”王貞治である。王は荒川にお祝いを述べてから、すぐに伺えないのを詫び、改めてわたしも育てていただいた…と感謝した。

 その頃、荒川の家は新宿区鶴巻町の早稲田実業(現国分寺市)の横門の前であった。“荒川道場”は荒川夫人和子さんを抜きにしては成り立たない。1961年秋、毎日大映オリオンズで現役を終えた荒川が川上巨人軍に打撃コーチとして迎えられたとき、給料は安かった。私の記憶では確か月割りにして10万円。彼女は稽古が終わると、選手に夏は出前寿司、冬はお疲れ様です…と鍋料理を作った。彼女の実家は昔からの早実正門前の大きな文房具店。学校の危機を助けたこともあって信用絶大。校内にも売店を出していて、手伝いに行っていたから早実の生徒が可愛くてならない。56年の球宴で“バンザイホームラン”の毎日の捕手・佃明忠、榎本、王…。みんな1年生の時からよく知っている。

 荒川の家が“荒川道場”と呼ばれるようになったのは2階8畳の和室の畳が、やってくる選手たちのバットスイングの足の運びであっという間に破れ、畳替えをし始めてからである。荒川はあまりにも激しいので柳橋の料亭専門の畳店に頼んだが、その上等畳も保たなかった。このことから誰言うことなく“道場”と呼ばれるようになったのだが、黒江透修が道場、道場…といちばんよく言っていた。

 彼は小学校1年のときに台湾で終戦。鹿児島県姶良町(市)に引き揚げ。父親は海軍相撲の横綱。九州の炭坑野球、立正佼成会を経て64年に巨人に入団。畳に感激。稽古に通ったが、黒江は努力などとは思ってもいない。目指すのはレギュラー。で、その畳の畳屋さんへの支払い。職人さんへの心付け。これも和子さんのやり繰りである。もちろん、持ち出しである。

 ペナントレース中はパとセでは日程が違うので榎本と王が道場で顔を合わせることはそんなになかったが、冬は毎日のように一緒だった。榎本は足の親指のねじりが凄かった。王は上げた右足をドンとおろすと、家中がぐらぐらと揺れた。

「ご馳走さまでした」

 二人は和子さんにお礼を述べて玄関を出ても別れなかった。榎本が言った。

「王、バットを振ろう!」

 早実の横門近くの塀にくっつくようにして立つ。バットが遠回りして出てくると、塀を叩くことになる。内角を想定して振るときは、塀が戒めになる。一閃、二閃…。100本振ると、二人は石を一つ拾い、近くに置き、五つ並ぶと別れた。王は新宿二丁目の実家へ。榎本は中野区鷺宮四丁目の実家へ。実家の庭の奥は栗林が続いていた。出場2222試合、通算安打2314の“安打製造機”と、世界のホームラン王が誕生しようとしていた。 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)