【豊田誠佑コラム】ドラゴンズ黄金期の礎築いた山田監督は忘れちゃいけない存在

2022年06月29日 11時00分

2003年9月9日、山田監督(左)はシーズン途中で解任された。右は西川球団社長(東スポWeb)
2003年9月9日、山田監督(左)はシーズン途中で解任された。右は西川球団社長(東スポWeb)

【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(30)】スカウトとして新たな道を歩み始めた俺だが、2003年、再び二軍外野守備コーチをやることになった。この年が2年目となる山田久志監督から二軍の若手選手の育成を頼まれたからだ。

 スカウトの仕事も好きだったけどやっぱりコーチの方が楽しいというのはあったね。バッティング投手をやったり、選手と一緒に汗を流す。体を動かすことがやっぱり俺には合っていたんだろうな。

 だけどわずか1年でまたスカウトに戻ってしまった。というのも山田監督が9月に突然、解任されてしまったからだ。

 山田さんはすごく不運だったと思う。02年からドラゴンズの指揮を執ったけど、同じ年に星野仙一さんが阪神の監督になってしまった。山田さんを1999年にドラゴンズにチーフ投手コーチとして招いたのは星野さんだ。本来なら名古屋で自分をバックアップしてくれるはずだった人が突然、敵チームの監督になってしまったのだから戸惑ったことだろう。

 山田さんはすごくクレバーな人で、ドラゴンズが勝つための新たな方向性をいろいろと模索していた。まず内野の守備に難のあった福留を外野にコンバート。そして二遊間に据えたのが荒木と井端の「アライバコンビ」だった。荒木は守備範囲が広く、井端はどんな打球も難なくさばいてしまう。とにかく2人とも守備は抜群だった。

 打つ方でも井端は追い込まれてもファウルでしつこく粘って好球が来るのをじっと待つ。荒木は入団当初は外野までなかなか打球が飛ばないような選手だったけどボールをミートする技術を確実に磨いていった。監督就任1年目にFAで獲得した捕手の谷繁と攻守にわたってスキのないアライバコンビでセンターラインをガッチリと固めてチームの骨格を作っていった。

 だけど勝負事にはツキも必要だ。03年の中日は故障者が続出。さらに18年ぶりにリーグ優勝した“星野阪神フィーバー”の勢いに完全に押されてしまい山田さんはシーズン途中でチームを去ることになってしまった。

 山田さんの後に監督になるのは誰だろうとみんなが注目していたけど、球団が白羽の矢を立てたのは落合博満さんだった。正直、これには驚いた。落合さんが監督をするイメージってなかったからね。

 04年から指揮を執った落合監督は8年間すべてAクラスでリーグ優勝4回、日本一1回とものすごい成績を残した。だけど落合さんが監督になったときにはアライバコンビをはじめ福留、立浪、井上(現阪神ヘッドコーチ)、谷繁とレギュラー陣はすでに固まっていた。落合監督はドラゴンズ、いや日本プロ野球の歴史に残る名将だと思う。でも、ドラゴンズ黄金時代の礎を築いた1人として山田さんの名前は忘れちゃいけないと俺は思っているよ。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。

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