【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(27)】1996年、中日に星野仙一監督が帰ってきた。前年(95年)は優勝したヤクルトと32ゲーム差の5位。97年から本拠地がナゴヤドーム(現バンテリンドーム)に変わるということで球団は闘将にチーム再建を託した。俺は一軍の外野守備走塁コーチとなり、三塁ベースコーチも任されるようになった。

 87年から91年までの第1次政権のときも厳しかった星野監督だが、第2次政権でもやっぱり厳しかった。ミスをすればガンガン怒られる。それは選手もコーチも変わらない。サードベースコーチで判断ミスをすれば俺にも容赦なく怒声が飛んできた。

 でも俺は星野監督の厳しくて熱い野球が好きだった。ベンチの雰囲気も引き締まり、前年、借金30を記録したドラゴンズは戦う集団に変貌。広島、巨人と激しいペナント争いを繰り広げていた。

 この年、ドラゴンズは5月に首位に立ったが、6月に入るとカープが快進撃。6月終了時点で中日は首位・広島と5ゲーム差の2位で巨人は11ゲーム差の4位に沈んでいた。だが、7月に入ると長嶋巨人が大爆発する。7月9日の広島戦で9者連続安打を放ち快勝すると、ここから猛スパートで8月末には首位に立った。

 星野監督は巨人に対してものすごいライバル心を燃やしていたからジャイアンツ戦はどのカードよりもピリピリしていた。だけどそんな中で独特の存在感を放っていたのが巨人の長嶋監督だ。長嶋監督は試合中でもサードベースコーチの俺の近くに来ると「豊田君、元気? うーん、今日はいい試合だね。お客さんもいっぱいだしね」と話しかけてくる。緊迫した場面でベンチを出てくると「豊田君、久しぶり! 同点だね。これからピッチャー代えるからね」と言ってから審判に投手交代を告げに行く。あのミスタージャイアンツが声をかけてくるんだ。「あ、はい…。そうですね」と俺はドキドキしながら答えていたが、やっぱりうれしかったよ。

 前にも書いたけど星野監督時代の中日では相手チームの選手と会話することは禁止されていて、もし会話をすれば罰金を取られていた。だが、ミスターだけは完全な“治外法権”だった。長嶋監督と試合中にしゃべっていても星野監督も何も言わない。というより星野監督も長嶋さんのことは大好きだったからね。ひょっとしたら長嶋監督と話をしている俺をベンチで見ていてうらやましがっていたかもしれない(笑い)。

 中日は9月末から6連勝して残り3試合すべて勝てば巨人と同率首位に並ぶというところまで持っていった。だけど10月6日、ナゴヤ球場最後の試合となった巨人との直接対決に敗れて優勝は幻に…。長嶋監督の胴上げを見届けた後、星野監督はナゴヤ球場のお別れセレモニーでレフトスタンドの巨人ファンに向かって「ジャイアンツファンの皆さん、おめでとう!」と祝福の言葉を贈った。「ジャイアンツだけには負けるな」と常に選手にハッパをかけていたけど、星野監督は巨人戦になると本当に生き生きとしていた。それは現役時代から、しのぎを削ってきたミスタージャイアンツ・長嶋茂雄さんという存在があったからじゃないかな。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。