【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(17)】1986年オフに就任した星野仙一監督のもとにはその後のドラゴンズを支える多くの選手たちが集まってきた。星野監督就任直後に1対4のトレードでロッテから獲得した落合博満さんがそう。そしてもう1人、87年のドラフト1位で獲得した立浪和義(現監督)もチームの核となった選手だった。

 春夏連覇したPL学園で主将を務めた甲子園のスターだが、実力は本物。春季キャンプで一緒に練習したときにすぐに思ったのが「こいつ、すげーな」だった。2か所ある打撃ケージで立浪が右、俺が左でフリー打撃をしたことがあったんだけど、立浪のバッティングを見て驚かされた。高卒1年目のルーキーなのにどんなボールにもタイミングを合わせて確実にコンタクトする。ものすごいバッティング技術を持っていた。一方、隣で打っている俺は、しっかり打つことができる場合とそうでない場合とバラバラ。これではどっちがプロ1年目なんだかわからない。ちょっぴり恥ずかしかったことを覚えている。

 立浪は守備も抜群にうまかった。足も速いし肩も良くてスローイングも完璧。それを見て星野監督は前年、30本ホームランを打っていた宇野をセカンドに回して立浪をショートのレギュラーとして使った。宇野もいいショートだったけど気持ちが入ってないときは簡単な打球でもエラーすることがあった。だから星野監督も代えたくてしょうがなかったと思う。投手陣も守備のいい立浪がショートになって喜んでいたんじゃないかな。実際に立浪は1年目からゴールデン・グラブ賞を獲得したからね(注・高卒1年目でのゴールデン・グラブ賞受賞は88年の立浪、99年の西武・松坂大輔の2人だけ)。本当にすごい選手だった。

 2018年、星野監督が亡くなった後のお別れの会で立浪と話をする機会があったんだけど「(中日に入ったばかりのころ)先輩の中で豊田さんが一番怖かったですよ」と言われたよ。新人になめられるのが嫌だったから最初、あまり口を利かなかったからそう思われたのかもしれない。だけど決して仲が悪かったわけじゃなかった。立浪はあいさつもしっかりしていて礼儀正しい後輩だった。立浪が肩を痛めたときには、名古屋で俺の知っている治療院を紹介して一緒に連れていったりもした。

 中日で通算22年、中心選手として活躍してきたし、とにかくドラゴンズへの熱い思いを持った男だ。だから今季から監督となってチームの指揮を執ることになったのは本当にうれしかった。立浪監督なら昔のような名古屋の人たちみんなから愛されるチームをつくってくれる。そう期待しているよ。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。