【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(14)】 1982年にリーグ優勝した中日だが、翌83年はサッパリでチームは最下位ヤクルトと0・5ゲーム差の5位に沈み近藤貞雄監督はこの年限りでチームを去った。俺も前年に痛めた右肩の状態が良くなくてほとんど二軍暮らし。シーズン通して20打数1安打と現役時代で最も不本意な成績に終わってしまった。

 それだけに山内一弘監督が就任した84年のシーズンは俺もチームも巻き返しに燃えていた。特に王監督就任1年目の巨人に対してはめっぽう強く第2戦から同一カード14連勝(シーズン通算17勝8敗1分け)。ドラゴンズの長い歴史の中でも最も巨人を叩いたシーズンとなったが、象徴的だったのが5月17日に郡山で行われたゲームだった。

 8回終了時点で2―3と1点のビハインド。巨人先発・西本聖の前に9回もあっという間に二死となり、対巨人の連勝記録は「6」でストップするかに思われた。

 ところがここで西本は田尾安志さんをストレートの四球で歩かせてしまう。「トヨ、レフトにいい風吹いているぞ。今日はカーブが多いぞ」。山内監督はそう耳打ちして俺を代打に送った。

 打席に入ると捕手の山倉さんが「お前うるせえな。ぶつけるぞ!」とクレームを付けてきた。実はこの試合、俺は山倉さんを標的にしてベンチからヤジを飛ばしていた。巨人はずっとうちに勝ってなかったからフラストレーションがたまっている。案の定、西本が投じた初球は内角へのシュートだった。

「次はカーブだな」。そう思いながら待っていると本当にカーブが来た。しかも高めの甘い球だ。「パコーン」。思い切り振り抜いた一撃はそのままレフトフェンスを越えてスタンドへ。まさかまさかの9回二死からの逆転2ラン。これには西本も山倉さんも王監督もみんなガックリで、反対に中日ベンチは蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

 9回裏をリリーフエースの牛島が締めて4―3でドラゴンズの逆転勝ち。ホームラン賞で福島のお米10キロをもらったし、山内監督からも監督賞として7万円をもらった。俺はこの年、代打で4本のホームランを放っているが、その中でも特に忘れられない1本だった。

 巨人から貯金を稼ぎまくったこのシーズンは広島と激しいV争いを繰り広げたが、惜しくも2位に終わった。山内監督は2年後の86年シーズン途中、成績不振のため休養↓退団となったが、その後会うたびに「講演があると必ずあの郡山の逆転した巨人戦のことを話すんだ。トヨのことをな」と言ってくれた。それだけ山内さんにとっても印象に残った試合だったんだろう。

 山内さんの後に監督になったのが、明治大学の先輩で俺たち夫婦の仲人でもある星野仙一さんだった。そして熱血指揮官のもとに落合博満さん、立浪和義、山本昌、今中慎二、大豊泰昭ら後のドラゴンズを支える人材が次々と集まってくることになる。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。