【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(12)】1982年のセ・リーグペナントレースは最後の最後までもつれた。9月28日の中日―巨人戦(ナゴヤ球場)で天敵・江川さんを打ち崩して勝利した中日に逆マジック「12」が点灯。そこからは毎試合が緊張の連続だった。

 勝てば優勝という「M1」で迎えた10月17日の大洋戦(横浜)の先発は三沢淳さんだったが、あまりのプレッシャーのためか試合前、声も出ない。それを見た近藤貞雄監督は緊張をほぐすため「これを飲んで投げろ」と缶ビールを飲ませてマウンドに送り出したほどだった。それでもこの試合は1―3で敗れ、優勝はおあずけ。すでに巨人は全日程を終了しており、優勝の行方は翌18日の大洋戦に持ち越された。シーズン最終戦となるこの試合にドラゴンズが勝てば優勝。負ければ巨人のVというとんでもない状況となった。

 だけどこの試合、ドラゴンズには大きなアドバンテージがあった。最終戦を前にして打率トップは大洋・長崎慶一さん(3割5分1厘)で、中日の田尾安志さんが9毛差の2位。大洋はタイトルを取らせるために長崎さんを試合には出さず、1番打者の田尾さんを全打席敬遠した。相手の1番いい打者がいない上に中日は田尾さんがすべて出塁するのだから圧倒的にこちらが有利だ。得点するたびにベンチ全体で「よっしゃいける!」と大盛り上がりとなった。序盤からドラゴンズが打ちまくり8―0と大量リードのまま最終回。先発・小松が最後の打者・ラムを空振り三振に切って取り中日が8年ぶりのリーグ制覇を決めた。

 優勝の瞬間、俺はレフトを守っていた。胴上げに参加するためマウンドまで全力でダッシュしたけどなかなか足が動かない。それだけ興奮していたんだと思う。プロで経験した初めての優勝。本当にうれしかったからね。

 横浜の宿舎に帰ってビールかけをしたけど最高だった。みんなでビールをかけ合って笑った。ホテルの食事会場でビールかけをしたんだけどじゅうたんがビールまみれになってもう使い物にならなくなったんじゃないかな。ビールかけの後、二次会は星野仙一さんに連れられてみんなで六本木へ繰り出した。若手20人ぐらいで横浜から球団の荷物車に乗って行ったのもいい思い出だよ。

 俺は高校時代、甲子園に出場してホームランを打つことができた。大学時代は全日本選手権優勝も経験したし日米野球でも敢闘賞をもらった。すごく恵まれた野球人生だったけど中日にいた36年間の中で一番うれしかったのは82年のリーグ優勝のときだろうな。

 ペナントレースを制して次は日本シリーズ。就任1年目の広岡監督率いる西武ライオンズが相手だった。相手が手ごわいのはわかっていたけど中日にも勢いがある。日本一になる自信もあった。だけど、まさか審判があんな形で西武に味方することがあるなんて…。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。