【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(2)】俺は東京の浅草の生まれ。ちゃきちゃきの江戸っ子で6人兄姉の五男坊だった。うちは中華料理屋とすし屋をやっていた。1つ上の兄と2つ下の弟も野球をやっていて、弟は東京六大学でも首位打者になった。兄も社会人でもプレーしていたから「豊田三兄弟」なんて呼ばれていたね。

 高校は日大三高だったけど、いやー、練習はきつかった。正月も休みはないし、先輩は厳しいし、練習中は水を飲んじゃいけないしでとにかく大変。小学校2年からずっと野球をやっていたけど、大学、プロ野球を通じて高校の3年間が一番苦しかったね。「1億円やる」といわれてももう二度とあの3年間には戻りたくない(笑い)。

 だけどつらい思いをして必死に練習に打ち込んだからこそ最高の思い出もできた。2年秋の東京大会では準決勝で早実にサヨナラ勝ちを決めると決勝でも堀越を破って優勝。センバツ出場を決めた。あのときのうれしさ、感激は今でも覚えている。部員全員で泣いたよ。夢がかなった瞬間だし、甲子園に連れていくという親孝行もできた。バスを2台チャーターしてうちの店の前から家族や近所の人たちみんなで応援に来てくれた。うちでは当時50万円ほどしたビデオデッキも買って甲子園の試合を録画してくれたんだ。

 俺が高校3年生だった1974年は高校野球の歴史の中でも大きな転換点となった年だった。この年の夏の大会から金属バットの使用が認められるようになったからだ。球場に響く「カキーン」という金属音は高校野球ではおなじみだけど、それまでは高校生も木製バット。打球も全然飛ばない。

 俺が出場したセンバツ大会が木製バットだけの最後の大会となったけど、この大会で記録された本塁打は1本だけ。実はこの本塁打を打ったのが俺だった。初戦で向陽(和歌山)を破り、2回戦で銚子商(千葉)と対戦。銚子商のエースは後に中日で一緒にプレーすることになる土屋正勝だった。その土屋から完璧に捉えた打球は右中間を真っ二つ。必死に走って、三塁ベースも蹴って一気にホームへ。金属バットが導入される前の最後の甲子園大会で記録された唯一の本塁打は俺のランニングホームランだったんだ。結局、銚子商には敗れたけど、甲子園でホームランを打つことができたのは今でもいい思い出だ。

 さて、日大三高の野球部員だった俺だが、そのまま日大に行くつもりはなかった。大学で野球をやるならやっぱり東京六大学でやりたい。そこで明治大野球部のセレクションを受けたんだけど、これが一発合格。明治大に進学することになった。

 憧れの東京六大学でプレーできる。希望に胸を膨らませながら野球部の門を叩いたんだけど、そこにはとてつもない人が待っていた。明治大の指揮を執っていたのはあの星野仙一さんも恐れたという御大・島岡吉郎監督だったんだ。


 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。