侍の将・稲葉篤紀に引き継がれた橋戸信の教え

2022年03月13日 10時00分

日本ハムの春季キャンプを視察する稲葉氏。左は松坂大輔氏(東スポWeb)
日本ハムの春季キャンプを視察する稲葉氏。左は松坂大輔氏(東スポWeb)

【越智正典 ネット裏】2006年、中日VS日本ハムの日本シリーズ第3戦(札幌ドーム)、稲葉篤紀は8回に3ラン、第5戦ではダメ押しのソロ。日本ハムは北海道移転後初の日本一に。稲葉は7打点でMVP。彼はそれから日本ハムでも在籍10年。ヤクルト10年と合わせて20年で現役を退き、そのあと日本代表のコーチなどを務め、17年7月「TOKYO 2020」の侍ジャパン監督に推された。

 侍ジャパンは五輪第1次リーグを勝ち抜き、閉会式前日の8月7日、米国との決勝戦でフィナーレを迎えた。私は稲葉が広島2年目の森下暢仁を先発に起用したのに驚いた。この前、広島のスカウト統括部長苑田聡彦の話をしたときに森下の話題にも触れたが、森下は大分商業3年の初夏、東京・府中市若松町の内海・島岡ボールパークでの明治大学の練習会(テスト)にやってきた。

 参加者は野手が50人だったのに比べ、投手は森下ひとりだけだった。ブルペンではびっくりするような球を投げていなかったが、どうしても明大へという一途な思いが伝わってきた。彼を育てたのは、このとき明大監督の善波達也(桐蔭学園、捕手)。善波は1985年卒。東京ガスに入社すると毎日、外回りで家々の検針。修業を積んできた。

 森下を3年生の秋に主将に任命したのは、より責任感の強い男にするためだった。東京五輪決勝の対米戦、結果は5回を3安打無失点、5奪三振だったが、いつ代えてもおかしくなかった。私にはそう見えた。稲葉は森下の歩みをよく知っている。

 米国は日本野球のお師匠さんだが、日露戦争さなかの1905年4月4日、横浜を発ち、日本初の米国遠征。6月29日に帰国の早稲田大学野球部主将橋戸信(都市対抗野球創設の功労者、同大会のMVPには「橋戸賞」が贈られている)が11月に「最新野球術」(博文館、復刻版ベースボールマガジン社1980年1月)を著述。同書の中で監督論を述べている。マネジメント、「監督」を「総理」とさらに訳して「…最も成功させるマネージャーたらんとせば、忍耐の人、決断の人、而して人間は如何なる者なるやてふ問題を善く解決して終れる人たるを要す…飽く迄も平和的の人にして選手を善く信ずる人たるを要す…」

 侍ジャパンは山田哲人(ヤクルト)はじめ全選手が祝杯のグラスの光のようないいプレーをちりばめていった。広島の菊池涼介は練習日に球拾いをしていた(サンケイスポーツ)。

米国000000000
日本00100001×

 侍ジャパンは金メダルに輝いた。2対0。米国の最後の打者ロペスの二ゴロを処理した菊池が言っている。

「自分で二塁ベースを踏もうと思ったけど、勇人さん(巨人、遊撃手、坂本勇人)がニコニコしてベースカバーに来たので、勇人さんに渡しました」(同前)

 同年8月8日、前回の当欄で登場した吉川登は親しい友人に書き送っている。

「猛暑お見舞申し上げます 稲葉ジャパン、金メダルをとりましたね 稲葉さんは素晴らしかったです 稲葉さんの野球に対しての姿勢、しぐさを、プロ野球の監督は見習って欲しいです」
 =敬称略=

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