【越智正典 ネット裏】 昨夏、3大会ぶりに実施競技として復活した五輪野球で、監督稲葉篤紀が率いる侍ジャパンが1次リーグから5戦全勝。2021年8月7日、横浜スタジアムで優勝を決めたとき、私は元ヤクルトのマネジャー、吉川登を思い浮かべていた。稲葉が勝ったのを喜んでいるだろうなあー。彼は当時、仕事がひと区切りしたときや、うれしいことがあると、池袋西口のびっくりガード近くにある店で500円の特製玉子焼きでビールを一杯…。そういう男である。

 吉川は中央大野球部のマネジャー。4年になってチーフ。3年生に東都大学リーグで通算最多133安打の藤波行雄(静岡商、中日=1974年新人王)、1年生にアンダースロー投手田村政雄(県和歌山商、大洋、南海)、のちに星野仙一の参謀となる捕手福田功(奈良・郡山高、中日)。

 吉川は練馬区立野町(当時)の合宿所近くの米屋さんなど、店々にツケがたまっているのを謝りにいく達人だった。73年秋、ヤクルトの監督に就任した荒川博(王貞治の師匠)に見込まれてマネジャーとなり、そのあとの営業担当時代にはこんなことがあった。

 上司に出張願を出し、東北新幹線に飛び乗り、停車駅前の旅行代理店にアポなしの飛び込みで、修学旅行の東京見物の夜、神宮球場に来てくださいとの案内書を提出後、また新幹線に飛び乗って次の駅の駅前店に駆け込んだ。その第1年、2000人の先生、生徒に来てもらった。場内テレビが外野席の生徒たちを映す。ウグイス嬢が校名を放送すると、内野席のお客さんが拍手を送っていた。

 中京大中京から法政大に進んだ外野手稲葉がドラフト3位でヤクルトに入団したのは95年である。私は彼の打撃よりも右翼守備の前進力に、いけるなあーと見ていた。試合が終わるとヤクルトの選手たちは地下道を通って右翼後方のクラブハウスに引き揚げる。稲葉が右翼フェンスの扉を開けて出ていくとき、吉川は右翼席の下でお客さんに「グラウンドに飛び降りないでください。危ないです」と呼びかけ、懸命の〝守備〟をしていた。

 ある晩、吉川が稲葉に「クラブハウスに帰るときは、お客さんにちゃんと一礼して行ったほうがいいよ」。稲葉は素直にうなずいて実行した。稲葉が野球人生で貫いているのは素直さである。

 ヤクルト在籍10年、日本ハムに移籍した稲葉の北海道2年目、2006年秋、チームはリーグ優勝。「シンジラレナーイ」。監督ヒルマンが名セリフを吐き続ける。10月21日、中日との日本シリーズが開幕。1勝1敗で札幌に戻ってきたとき、稲葉は感嘆した。札幌駅の駅員が日本ハムのユニホーム姿で出迎えてくれたのだ。 =敬称略=
(スポーツジャーナリスト)