巨人の黄金期に活躍した倉田誠さんが7日に心不全のため死去した。75歳。現役時は1973年に18勝(9敗)で最高勝率のタイトルに輝くなどV9時代を支え、77年から80年はヤクルトでプレーし、78年の優勝に貢献した。現役引退後は巨人で運営部長などの要職を歴任。巨人取材歴33年のスポーツライター・赤坂英一氏が悼んだ。

【赤坂英一 赤ペン!!特別編】僕がこの仕事を始めた1988年、東京ドームに顔を出すと、よく一軍マネジャーだった倉田誠さんに「来たな、歩くペンの暴力」と声をかけられた。ついでに周囲の巨人選手に「気をつけろよ、こういうヤツが一番危ないんだ」と言われたおかげで、当時の主力には割と早く顔と名前を覚えてもらえたものだ。

 現役時代は主力投手としてV9(1965~73年の9年連続優勝と日本一)に貢献し、73年に18勝を挙げて最高勝率(6割6分7厘)のタイトルも獲得。通算57勝33敗13セーブを残して80年に引退し、翌年から巨人の球団職員に転身した。

 国際部長だった96年は韓国人投手・趙成珉を異例の8年契約で獲得。その後、編成部長、運営部長などを歴任したが、出世するにつれて何かと気苦労も絶えなかった。

 原辰徳・現監督が野手総合コーチに就任した98年の秋季キャンプの最中、巨人入りした新人・上原浩治が「メジャーへの夢はあきらめません」と発言。これに原コーチが「巨人で2~3年経験を積んでメジャーに行けばいい」と話し、スポーツ紙に大きく報じられた。

 この事態を問題視した球団代表が「原コーチに軽率な発言を慎むように伝えてくれたまえ」と現地の倉田さんに指示。倉田さんが原コーチに「みだりにあんなことを言っちゃいかん」と言ったら、このお小言がまた新聞のネタになって、原コーチを怒らせている。

 99年からは運営部長に就任し、毎オフの契約更改で選手側との交渉の矢面に立つ。代理人制度や下交渉などない時代、選手側が強硬にアップを要求すると、倉田さんも球団の査定は譲れないとしてはねつけ、紛糾したことも少なくなかった。

 倉田さんはのちにこうもらしたことがある。

「あのころ、選手は二言目には『球団代表に会わせてください、倉田さんじゃ話にならない』って言うんだ。でも、選手が代表に会えるのは、査定に納得してハンを押すと答えたときだけ。当時はそういう決まりになっていたのに、なかなかわかってもらえなくてな」

 それでも、あえて悪役扱いを黙認していた倉田さんを、巨人OBの青田昇さん(元東スポ評論家)は高く評価していた。

「目の前に1000万円積まれて、持っていけと言われても、そんな筋の通らない金は要らん、と突っぱねられるのが倉田という男や。巨人は絶対ああいう謹厳実直な人間を手放したらいかん」

 倉田さんもいまごろはきっと、青田さんと天国で昔話に花を咲かせていることだろう。謹んでご冥福をお祈りします。

☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。日本文藝家協会会員。最近、Yahoo!ニュース公式コメンテーターに就任。コメントに「参考になった」をポチッとお願いします。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」(講談社)など著作が電子書籍で発売中。「失われた甲子園」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。他に「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。