【仲田幸司コラム】クビ宣告を覚悟…どん底にいた91年

2021年10月29日 11時00分

巨人戦での投球フォーム(1987年)
巨人戦での投球フォーム(1987年)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(26)】 2年目の1985年に3勝を挙げ日本一を経験させていただきました。3年目の86年以降は先発ローテで投げさせてもらい、88、89年は2年連続開幕投手も務めさせていただきました。

 87年の8勝がそれまでのキャリアハイで、成績は下降線でした。90年は自己最多の45試合に登板したものの4勝13敗。91年には37試合に登板も先発6試合のみで1勝に終わりました。

 その唯一の勝利が7月7日の巨人戦(東京ドーム)で挙げたものでした。同点の3回から登板し巨人先発・桑田真澄と投げ合いました。

 延長戦になっても続投し得点を許さず、12回にマーベル・ウィンの本塁打などで得た2点の勝ち越しを守り抜きました。

 もちろん、相変わらず必死に投げていました。ただ、このころには周囲の僕への態度が変わり始めていたのも敏感に感じていました。

 僕は正直、このシーズンでの「クビ」を宣告されるのも覚悟していました。ずっとエース候補と言われ続けて期待されても8年目です。後から後から若い選手が入団してきます。

 91年の僕はとにかく、勝ち負けという問題より与えられた瞬間、瞬間をどうアピールするかだけを考えて投げ続けました。

 ちょっとでも印象に残る投球をしよう。せめてもう1年でもプロとしてチームに残してもらおう。取り組む姿勢も含めて爪痕を残してやろうという思いで必死でした。

 チーム内での空気ってあるんですよ。これは経験した人にしか分からないと思います。自分はもう期待されていないと感じる瞬間があるんです。コーチにも教えてもらえない、下手すれば声もかけてもらえない状況です。

 後輩には猪俣隆、野田浩司、中込伸、葛西稔、湯舟敏郎ら毎年、どんどんいい若手が入ってくる。そっちの力を伸ばそうというのが自然ですよね。
 そうなると自分はアピールしようと攻めの投球ばかり考えがちになってしまう。こう投げて、ああ投げてという組み立てができず、空回りしてしまいます。それが1勝という結果になったのでしょう。

 それでも何とか翌92年の契約をしてもらうことになりました。自分でも思うのですが、左投手でなかったら僕は残れなかっただろうなと思っています。
 当時はやはり左腕は貴重でしたし、まだスピードは衰えていなかった自負はありました。

 翌年の契約は勝ち取れても、今後は活躍できなければ同じ悩みに苦しめられます。その当時はもう妻も子供もおり家族を抱える父親でした。何とかしないといけない。

 本当に自分が崖っ縁にいるんだということに気づきました。そこからが91年の秋季キャンプでの取り組みにつながっていきます。本当に決死の覚悟です。

 92年の輝きの前夜、僕はどん底にいました。

 当欄の最初の方で語らせてもらいましたが、新球の習得に挑みました。それまでの僕は直球と大きく曲がるカーブしか投げられませんでした。

 左腕の僕としては対戦の多くなる右打者に内側だけしか意識させることができない。そこを改善するため、内角へカット気味に曲がるスライダーと、外角へ抜けるスクリュー、シンカーのようなボールの習得に取り組みました。

 90年から中村勝広監督に代わるもチームは2年連続の最下位。ただ、敗戦の中でも一軍の戦いを経験した若手たちは伸びていました。92年、あの快進撃に僕はエースとして貢献することになります。

 ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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