〝平成の怪物〟がついにユニホームを脱いだ。西武の松坂大輔投手(41)が19日の日本ハム戦(メットライフ)に先発。横浜高の後輩・近藤に四球を与え、23年間の現役生活に幕を下ろした。

 松坂の功績を語る時に、1998年の甲子園春夏連覇は外せない。

 全国の高校球児が「打倒・横浜」「打倒・松坂」を掲げて日々研鑽を続けたが、松坂はライバルたちをなぎ倒して王者として君臨。夏の甲子園では準々決勝のPL学園戦で延長17回の死闘を一人で投げ抜き、翌日の準決勝の明徳義塾戦では6点差を終盤だけで逆転。決勝の京都成章戦ではノーヒットノーランを達成し、国民的ヒーローとなった。この時代に切磋琢磨したライバルたちは「松坂世代」と呼ばれ、プロ野球界でも存在感を増していった。当時を知る関係者は、こう述懐する。

「松坂の一番の功績は、ライバルたちを奮い立たせ、結果的にその前後の野球人口、ファンを増やしてくれたこと。あの時代の球児たちは、みんな松坂を追いかけていた。全盛期の入り口にいたイチローから、高校を卒業して2か月足らずの投手が3三振を奪うというストーリーをどんな脚本家が想像できたかを思えば、彼の残した伝説のインパクトは大きかった」

 西武入団後は、とにかく投げることにこだわった。すでに米球界では「肩は消耗品」「球数100球制限」が一般的になっていたが、松坂は春季キャンプ中のブルペンで300球超えの投げ込みを敢行。そのスタイルには「昭和の香り」が漂っていた。先発したマウンドでは最後まで投げ抜くのが当たり前。負け試合でも最後まで投げ抜く姿勢を崩さなかった。

 ともにプレーした西武OBはこう振り返る。

「とにかく大輔は頑固だった。任された試合は投げ抜きたいという昭和の人間(笑い)。投げることこそが彼の存在証明のようだった。もし、大輔が今の時代の有望な高卒ルーキーのような扱いを受けて『1年目は投げずに体力作り中心』などというメニューを与えられたら、間違いなくふてくされてしまうと思う。それぐらい投げることがすべてだった」

 投げてチームに貢献したいとの強い思い。任されたマウンドは最後まで投げ抜きたいという気概。それが、松坂大輔という投手の真髄だった。