【泥だらけのサウスポー Be Mike(20)】ホームシックにかかってしまいましたが、プロ入り1年目を無事に終えることができました。初めてのオフシーズン、ようやく田舎の沖縄に帰ることができリフレッシュできました。

 2年目の1985年は安藤統男監督から吉田義男監督に代わりました。投手コーチは300勝投手の米田哲也さんになりました。

 キャンプは一軍スタートで高知・安芸へ。前年まで一軍はハワイ・マウイでキャンプインでした。しかしこの年、就任した吉田監督の方針で一、二軍とも目が届くようにと、安芸でのキャンプに変更となっていました。でも、僕としてはやることは変わりません。開幕一軍を目指して練習に励みました。

 僕としては正直、ブルペンでは諸先輩方には大変、申し訳ないんですけど球の速さに関しては劣っていないなとは思いました。

 プロなので球の速さだけで勝負するのではないのですが、スピードでは負けていないと少し自信を持っていました。

 何とか順調にキャンプ、オープン戦と結果を残して僕は開幕一軍の切符を勝ち取りました。

 もちろん、実績はないので最初はビハインドの場面での登板になります。投手起用においての役割分担が常識になった今では、死語だと思いますが「敗戦処理」が当時の僕の仕事でした。それでも当然、必死に投げました。

 プロ初登板は85年4月29日の大洋戦(横浜スタジアム)でした。ビハインドの8回に登板し1回1失点でした。ただ、その試合のことは正直、あまり覚えてないんです。

 緊張していたのもあったんです。それより、プロ野球チームもない沖縄では当時は情報も少なく、テレビ中継のある巨人しか知らない人がほとんど。後々、対戦して覚えていくんですが、最初は誰が誰だか正直、完璧には把握できていませんでした。

 それは自分のチームに関しても同じでした。4番の掛布雅之さんは知っていましたが、他の先輩方は真弓明信さんも、岡田彰布さんのことも知りませんでした。

 掛布さんは78年にレコードを出されていたんです。「掛布と31匹の虫」(CBS・ソニー、作詞・はらたいら、作曲・長戸大幸)という歌で、それで特に印象に残っていたんです。

 正直、高校時代までどのチームに誰がいるというのはそこまで知らなかった。広島はコザでキャンプをしていたので、見学に行って北別府学さんや池谷公二郎さんのことは分かっていました。テレビでは巨人しか見ていないので、本当にそんな状態でしたね。

 そんなわけで85年の登板で最初に記憶が鮮明なのは5月1日の巨人戦(後楽園)なんです。阪神ビハインドの8回裏です。「マイク、1イニング投げてこい」と送り出されました。

 対戦したのは捕手の山倉和博さんでした。木戸さんのサインはインコースのストレート。それも、内角を厳しく攻めて、打者を起こすくらい、攻めてこいと指示が出ていました。

 思い切って投げました。そしたらボールは内角低めにクロスファイアのストライクです。最高の球です。もう1球、同じサインでまた同じところにストライク。だったんですが、最後に死球を与えてしまいました…。

 永遠の宿敵相手に攻めの姿勢が良かったのか「ぶつけてしまったけどドンマイや」と仲間からたたえてはもらえました。これが巨人戦かという印象は強く残っています。

 そして、一軍メンバーとしてチームに帯同し1か月ほどがたったころ、僕は大きなチャンスを与えてもらうことになります。

 ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。