【泥だらけのサウスポー Be Mike(15)】 高校3年春の選抜では大阪・上宮に悔しい延長サヨナラ負けを喫しました。絶対に夏にも甲子園に戻ってくる。そう誓った思いの通りに甲子園に帰ってくることができました。

 沖縄県大会の決勝では発熱と左肩の不調というアクシデントを経験しました。それだけ気負いがあったのでしょう。ただ、それを乗り越えて聖地に帰ってくることができた。ここへの過程は成長へとつながったと思います。

 県大会で優勝した瞬間は、これで本当の戦場にいけるという安堵感のようなものがありました。5月に沖縄で行われた招待試合では、夏春連覇の徳島・池田高を完封。当時の蔦文也監督に絶賛されたこともあり、僕への注目度は高まっていました。ドラフトの目玉としても名前が挙がっていました。注目される中で結果を出すというのは高校生にとっては酷なことです。

 2年の夏に先輩ときた甲子園とは感覚が違いました。あれからたった1年しか経過していないのに。甲子園という実感はあっても、浮足立つような感覚もありません。前年はバス移動で電信柱に付けられた地名「甲子園○番町」という文字を見ただけで鳥肌が立ちました。もう、そのころとはまったく違います。
 帰るべき場所に戻ってきた。ここからが本当の戦いの始まりだ。そう思って臨んだ夏の甲子園、第65回全国高等学校野球選手権大会はやはり甘くなかったです。

 1回戦は長野商との対戦でした。3回に振り逃げ(三振と暴投)で許した走者をエラー絡みで生還させ、嫌な形で1点を献上。先制を許した後も相手投手を打ちあぐね、7回にようやく同点に追いつきました。

 延長10回裏に仲田秀司(のちに西武)のサヨナラ打で辛くも勝利はしました。自分自身は10イニングを投げ抜き1失点、17奪三振という成績でしたが、苦しい試合でした。

 そして2回戦です。我々は昨年の夏にも負けた広島商と再び対戦することになりました。2年連続で同じ学校と当たってしまうなんて思ってもみませんでした。
 前年夏は5回までノーヒット、試合全体でも被安打2に抑えながら、6四死球絡みで4点を失い悔しい敗戦を喫した相手です。もちろん、リベンジに燃えていました。

 ただ、この対戦も苦しい試合でした。1点リードの4回、二死無走者から四球、安打で一、二塁とされ、さらに連続四球で押し出し。これで同点です。
 6回に味方が2点の勝ち越しに成功しましたが、その裏に失策と二塁打で二、三塁から連続スクイズを決められ再び同点とされました。8回は二死一塁から左中間へ適時三塁打を打たれ、そのまま力尽きました。被安打4、3―4で最後の夏は終わりました。

 優勝候補に挙げられながら、そこまでの結果を残すことができませんでした。その原因は何だったのでしょう。全国大会ともなると好投手が相手となります。そうするとなかなか打てないので点を取れないゲームが多くなります。そういう中で自分の制球難もあり、野手の守備や攻撃のリズムを狂わせてしまったのでしょうか。

 ベスト8にはいけるかな、くらいには思っていた自分もいました。でも現実は甘くなかったです。もちろん、負けた直後には悔しさが込み上げました。でも、そこから時間が経過すると「もう高校野球をやらなくていいんだ」という解放感も感じてしまいました。

 これで真剣勝負の野球は最後という仲間もいました。でも、僕はこの先もプロでやるんだという気持ちがどこかにあったんだと思います。まだまだ先が長いので、高校最後の夏で負けて「ああこれで一休みできる」という気持ちになったのかもしれません。そして、ここから先の人生が急展開を迎えることになります。 

  ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。