【仲田幸司コラム】もうひとつの「忘れられない1球」は2度目の甲子園で…

2021年10月05日 11時00分

3年春の甲子園は1回戦でサヨナラ負けを喫した
3年春の甲子園は1回戦でサヨナラ負けを喫した

【泥だらけのサウスポー Be Mike(11)】2年の夏にエースとして3年生と一緒に出場した甲子園。先輩たちに「甲子園に来られたのはマイクのおかげ」と抱きしめてもらった。子供のころは米国人とのハーフであることでイジメられたこともありました。それだけに、みんなに認めてもらえた気持ちになりました。

 この夏は3回戦まで進出。対戦した広島商は野球巧者で2安打に抑えたものの惜敗し、後から悔しさがあふれました。甲子園で勝ちたい、全国の舞台で活躍したいという気持ちが向上心を駆り立て、練習にも気合が入りました。

 新チームになってもチームは勝ち進みました。九州大会を制して1983年、第55回春の選抜の出場を決めました。

 3年生になって初、僕自身2度目の甲子園です。夏の悔しさをバネにしたいところでした。でも、結果は1回戦で大阪・上宮にサヨナラ負け。まさかの初戦敗退でした。

 上宮の松島投手はアンダースローの技巧派で、興南打線は苦労しました。沖縄にはまったくと言っていいほどいないタイプでした。本当にテンテコ舞いでした。それでも、4回に何とか1点を先制してくれました。

 興南が1―0で8回までリードを守りましたが、9回裏に「まさか」が待っていました。一死から相手の打者は6番・竹田。忘れもしない111球目でした。内角高めの直球を左中間のラッキーゾーンへ運ばれました。土壇場で同点です。今、思い出しても悔しいですね。

 この連載の第1回にも書きましたが、阪神時代の92年10月6日にヤクルト・広沢さんに本塁打された1球と、この竹田への1球は一生忘れられないです。
 そのまま延長戦となり10回裏一死一、三塁で打者は4番の光山(のちに近鉄などでプレー、現楽天・バッテリー兼守備戦略コーチ)です。

 遊ゴロに打ち取って「光山は足が遅いから6―4―3のゲッツーや」と思ったはずが、クロスプレーで一塁はセーフの判定。三塁走者が生還してサヨナラ負けです。

 一塁塁審の両腕が開くのを見た時、両手に白い手袋をしているように見えたような、そんな記憶が残っています。なぜか分からないのですが、そういう記憶が今もある。

 言っても仕方ないのですが、微妙なタイミングでした。僕はあれはアウトやと思っています。今ならリクエストしたいくらいです。さらに、今みたいに甲子園のラッキーゾーンもなかったら…。悔しい負けでした。

 2年の夏は甲子園に出ること自体が目標だった。それが甲子園で勝ってなんぼだという意識に変わりました。春の選抜では初戦敗退して、絶対に夏も甲子園に戻らなあかんという気持ちに強くなりました。

 そのあたりから僕自身も将来的にはプロへという意識も芽生えてきました。今みたいに各球団のスカウトがあちこちに網を張り巡らせてはいない時代です。地方都市の沖縄にいる僕にとっては甲子園がアピールの場所でした。

 甲子園こそがプロへの一番の近道だと思っていました。そこでアピールせなどうするんやという気持ちです。3年の春が終わった時点で、夏の甲子園での勝利と、プロ入りへのアピールを意識していました。

 沖縄県内では自分の球が一番、速いと思っていましたが、全国にはもっとすごい投手がいる。槙原寛己さん(愛知・大府から巨人)の球は速かった。荒木大輔(早実からヤクルト)は高校生なのに抜群の制球力で、変化球も多彩だった。僕も高校ナンバーワン左腕と報道されたりしましたが、うぬぼれていたわけではありません。目指すところが一段、一段と高くなっていきました。

 ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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