【取材の裏側 現場ノート】佑ちゃんの日本ハム入団1年目、テレビや新聞の担当記者はこぞって「佑ちゃん番」を派遣した。経歴は、ほぼ全員が「早大」「早実」出身者。同じ学部、同級生、野球部…メディアも彼との〝関係性〟を強固にしたかったのは言うまでもなく「佑ちゃんと気心の知れた」人材を投入するのが当時の日本ハム担当記者のトレンドですらあった。

 そんな「王子詣で」は両親にも及び、当時は、両親主催による「佑ちゃん担当記者食事会」が開催されたほど。そのころ、まことしやかに噂されていたのが、父・寿孝さんら「斎藤家」の人々に、お気に入りの「記者ランキング」があるというもの。後日、本人に興味本位で聞いてみたところ…。意外にもそのなかに早大・早実閥の記者は一人もいなかった。

「何で?」と聞いた記者に対する、佑ちゃんの答えは明快だった。

「別に誰かが嫌ってことはないですよ。仕事先の早稲田関係の誰かひとりと何かしたら、バランス取れなくなるじゃないですか? お互いに。×社の大学の後輩とはコレをやったのに、別の×社の先輩とはやらなかった、または何かの事情で断ったなんてことがあったら、こっちとして気まずいですし。僕にとっては早実や早稲田の出身というだけで野球をやっていなくても先輩は先輩、後輩は後輩。同級生は同級生。同じ卒業生として、共有できる過去があるだけでも素晴らしいこと。なのに、それをこれからのことで壊す必要なんてね、僕は『ない』と思っているんです。それが普通だと思うんですけど」

 彼に話を聞く機会が多くなったのは、そんな〝佑ちゃんフィーバー〟が落ち着いた2016、2017年ごろ。立場も年々厳しくなってきたが、卑屈になることはなかった。

「みんなサ~っと引いてっちゃいましたね~」

「そう、あの人! ファンの方々に交じってる黒い服着た! あの人、文春ですよ! 昨日、直撃されちゃいました(笑い)」

 週刊誌に直撃されたことを冗談めかして語る、お茶目な一面も見せながら、復活への熱量だけは失っていなかった。

 当時、二軍のときは朝5時起床。二軍本拠地・鎌ケ谷で試合がある日は、6時過ぎには都内のジムで故障した肩関節の可動域や強化をしてから球場入り。ブルペンに入れば記者のカメラを拝借し、投球フォームの連続写真を凝視して、脳裏にある理想と何度も〝答え合わせ〟をするのは日課でもあった。

 もがき続け、納得して、ユニホームを脱ぐのだと思う。次に会ったときには「お疲れさまでした」と伝えたい。(元日本ハム担当・赤坂高志)