【泥だらけのサウスポー Be Mike(10)】興南高野球部に入部したときには、身内からライバルを探していきました。そいつを追い抜かないと試合には出られない、と思い練習に励みました。僕も特待生だったけど、他にも才能を見込まれたいい投手はいるわけですから。

 まずは身近なライバルに勝ってチームのエースになり、次は県大会で勝って、全国で甲子園で勝ちたいんだと強く思うようになっていました。自分の中で一段、一段と階段を上ってレベルアップしていきました。

 いきなりエースになれたわけではないですから。幼少期にいじめられた記憶はまだありました。負けたくない、見返したい気持ちから徐々に変化していきました。

 高校入学までは自宅から空港の往復約8キロを走っていましたが、コースが変わりました。今度は家から学校までの同じくらいの距離を、制服と教科書を入れたバッグを背負いながら行き帰りに走っていました。

 これは当時、甲子園出場が決まったときにNHKで特集もしてもらいました。1年生の時から走るルートは一緒です。周囲の住民の方々も興南の仲田と気づいてくれて声をかけてくれました。2年の夏に甲子園に出て覚えてもらって、沖縄の県民の皆さんにも認められたような気持ちになりました。

 猛練習といえばこんなエピソードもありました。当時、僕らのグラウンドから高速道路のような高架道路が見えたんです。そこにブルーの車が見えると、それが比屋根監督だというのが分かったんです。

 ある日、監督が「ちょっと用事があるので出かけてくるから。帰ってくるまで投げとけ」と指示を出して外出されたんです。監督も学校の近くに住んでいたので、そのうちブルーの車が帰ってくるだろうと真面目に投球練習をしていたんです。

 僕と仲田秀司(のちに西武)とで延々ピッチング練習です。スタートしたのが夕方の4時くらいだったでしょうか。それが、もう夜の8時、9時となっても帰ってこないんです。

 秀司と監督が帰ってこないなあと心配していました。帰ってくるまで投げとけと言われているからなあと、それでも仕方なく練習を続けていました。秀司に球数を聞くと「もう3000球超えてるぞ」と、これは衝撃の数字です。

 そのころ、監督は自宅にいてグラウンドの照明がまだついているからおかしいと、車で駆けつけてきました。

 そして監督は「お前ら、何をしている?」と。いや、監督が帰ってくるまで投げろと言ったからと説明すると「アホか。3000球も投げてどうする! 潰れてしまうぞ」と怒られました。つまり、監督は指示を出したことを忘れ用事を済ませ帰宅していたんです。

 今となっては笑い話ですね。この事件は3年のまだ夏の大会よりもだいぶ前の出来事だったので、まだよかったです。あの3000球の投げ込みがあったから鍛えられたかもしれないなどと、笑って話せますが本当に故障しなくてよかったです。

 全国の舞台を知ることで野球に対する意識も高まりました。新チームでも順調に勝ち進み、秋季大会を経て春のセンバツへの出場も決まりました。2年の夏は3回戦までコマを進めましたが、3年で出た春のセンバツでは1回戦で大阪・上宮に延長10回サヨナラ負けを喫しました。

 全国の舞台で甲子園で勝ちたい。夏も必ず甲子園に帰ってくる。その気持ちを持って最後の夏に挑みました。

 ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。