【泥だらけのサウスポー Be Mike(3)】僕は米国・ネバダ州の生まれ。あの有名なラスベガスのある州です。母には砂漠にポツンとある病院で生まれたと聞いてます。でも、あまり父親の話は聞いてないし、そのころの記憶はもちろんないし覚えてないんです。

 父は米軍将校で伊丹空港がまだ米軍基地だったころ、基地内の社交場で働いていた母と出会った。

 両親は結婚後に米国へ帰国。その期間に僕が生まれた。米国名はマイケル・フィリップ・ピーターソン。僕がマイクと言われるのはここに由来します。

 父が沖縄の基地に異動となり家族で移住してきました。沖縄のあのフェンスに囲まれた米軍基地の中が家族の生活の場でした。

 生活に必要なものはほぼすべて揃っていますし、もちろん基地内に幼稚園や学校もあります。普通に僕もドルを使って買い物をしていました。

 僕が5歳のころ、両親は離婚しました。小学校1年生まではアメリカンスクールに通っていましたが、そのころに母は沖縄出身の現在の父と再婚。米軍基地を出て日本の小学校に転入することになりました。

 父の名前が「仲田」です。なので僕は「仲田幸司」として沖縄県民として生きることになりました。ただ、これが当時の時代背景もあってそう簡単に、そうですかと受け入れられる現実ではなかったんです。

 基地の敷地の内側から外側へ。僕以外にも経験してる人はいるだろうけど、特に子供の僕には何が何だか分かりませんでした。基地の中には生活のほぼすべてが揃うので、沖縄にいながら県民にも文化にも触れ合うことがなかったですから。

 家族でドライブに行ったりそんな記憶はあるとはいえ、本当の沖縄を肌で感じることはなかったですからね。子供なので社会情勢も知りませんから。

 また、日本の小学校に通い始めたのが1972年、沖縄返還の年でした。反米感情もさらにぶり返したような時期で、タイミングとしてはある意味悪かったですね。

 50年ほども前のことですよ。ハーフが普通の那覇市内の若狭小学校に入ってくることになった。学校としては大騒ぎですよ。うちの学校に「ガイジン」が入ってきたぞって。

 僕も今のように体も大きくなかったですし、やはりいじめられました。いすに画びょうなんかは当たり前。給食のお皿には砂しか入ってないとかありましたよ。歩いていたら2階からツバをかけられたりね。当然、登校拒否にもなりました。

 この時に思い出したことがありました。米国の幼稚園に通っていた時代に、ある大人から「黒人とはしゃべったらダメだよ」と言われたことがあったんです。

 肌の色が違うことは分かるけど、同じ人間なのになんでだろうと子供の僕は不思議に思った。でも、この意味が分かったのが小学校転入後のあの時期でした。今は自分がそういう差別の対象になっているんだと身をもって感じました。

 親には学校に行くふりをして近所の公園に通いました。隠れ家になるような場所を見つけて、そこに身を潜めてね。学校の下校の音楽が流れてきたら、何げない顔して家に帰って。親に「どうやった学校は?」と聞かれ、楽しかったよと答えてました。

 給食代が入った封筒からお金を抜いて、駄菓子屋で飢えをしのいでいたので、しばらくして親にはバレました。そりゃ学校から連絡が入りますよね。

 あのままでは悪い道にそれてもおかしくなかった。でも、僕を親身に思ってくれる味方もいました。

 ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。