【赤坂英一 赤ペン!! 】巨人の菅野智之、今季は波が激しい。中4日で先発した12日の広島戦は7回5安打1失点で4勝目を挙げたが、復活したと見るのは早計だろう。菅野はこれまで4試合で5回もたず降板。前回、7日のDeNA戦は7安打5四死球7失点で5回途中にKOされている。

 マウンドでの態度もエースらしくなかった。ボール判定、スイングより死球を取られたことに、あからさまに不満げな表情を見せ、天を仰いだり、両手を広げたり。エースがこんなに感情をあらわにしていては、バックを守っている野手の士気にも良い影響は与えない。

 そんな菅野の立つマウンドへ足を運ぶ桑田投手チーフコーチ補佐の姿を見ていて、どこかで見た光景だな、と思った。

 1992年5月20日、東京ドームの阪神戦。背番号18は菅野ではなく桑田、73は桑田ではなく名将・藤田監督だった。

 勝てば4連勝で最下位脱出のかかっていたこの試合、桑田は8安打6四死球7失点。巨人が5回に逆転した直後の6回に再逆転され、この回で途中降板となった。

 ピンチのさなか、珍しく藤田監督がマウンドへ行き、厳しい表情で桑田を叱咤激励していた姿を、私は今でもよく覚えている。もっと早く交代させるべきだったのではないかと聞かれると、藤田監督はこう答えた。

「代え時が遅かったかな。でも(逆転される前)6回二死までいっていたし、何とか切り抜ければ、今後、桑田の自信になると思ったんだが」

 92年の桑田も、今年の菅野と同様に苦しんでいた。この阪神戦で自身4連敗となり、その後もチームの連勝を止めるたび「連勝ストッパー」などと揶揄されている。

 常にクールなようでいて、意外に感情が表に出やすい性格は菅野に似ていたかもしれない。とくに、バックの守備にミスが出るとよく制球を乱してしまう。そんな時、マウンドで桑田をなだめるのはもっぱらショート・川相の役目だった。

 92年、桑田の最終成績は10勝14敗、防御率4・41。最後は巨人が67勝で2位に浮上し、69勝で優勝したヤクルトを2ゲーム差まで追い上げただけに、桑田への風当たりは強かった。

 しかし、背番号18の先輩として、そんな苦難を乗り越えてきたぶん、桑田コーチの引き出しの数や中身は誰よりも多いはずだ。優勝争いはこれからが大詰め。かつての藤田さんのように菅野を導き、背番号73と18の新たな師弟伝説を作ってほしいと思う。

 ☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。