【泥だらけのサウスポー Be Mike(1)】阪神タイガースの「暗黒時代」と言われた期間、まばゆいばかりの光を放った左腕がいた。チームは1985年の日本一後、翌86年は3位、そこから5年は6位4度に5位1回と低迷した。迎えた92年、下馬評は悪かったものの虎フィーバーが巻き起こった。同年、勝ち頭の14勝を挙げて優勝争いをけん引。分厚い雲の合間から輝きを放った「マイク」こと仲田幸司氏(57)が、波瀾万丈の半生を語った。

やっぱりあのシーズンがあったからですかね。今でも阪神ファンの方に声をかけていただいたり、覚えてもらえていたりね。こうして取材を受けたりするのもそうです。

 92年ということになりますか。ヤクルトとの優勝争い。これには敗れてしまいましたけど、最下位ばかりだったチームが6年ぶりのAクラスで2位という結果を残しました。

 あの年は投手陣の中心として投げさせてもらいました(35試合14勝12敗、防御率2・53)。充実もしていました。入団してから初めて球場に行くのが楽しくて、野球をするのが楽しくてというシーズンだったのを覚えています。

 あとで振り返って思うことですが217回1/3という投球回、13完投(リーグトップ)も、僕の唯一のタイトルである194奪三振(最多奪三振)もすごい数字だったと思います。

 ベンチの雰囲気もそれ以前とガラッと変わりました。最下位ばかりのときは、打たれてベンチに戻っても「しゃーないよ。また次あるから。切り替えよう」と傷のなめ合いでした。

 でも、優勝争いをしだすと「しっかりやろうぜ。何やってるんや」と言い合うようになった。人に言うからには自分もしっかりしないといけないわけで。空気がどんどん引き締まっていきました。

 優勝を意識とかいう感覚はなかったです。ただ、目の前の戦いに必死でした。

 でも、僕の中であのころに戻ってもう一度、やり直したいという場面はありますね。阪神が1ゲーム差の首位で迎えた10月6日、神宮でのヤクルト戦です。7回、広沢さんに決勝本塁打を打たれたシーンです。0―1で負けた試合のあの一発ですよ。

 岡林とのエース対決で両軍無得点のまま終盤戦に入りました。今でも覚えてます。2ストライク1ボール。捕手の山田は外角シンカーを要求してきました。それに僕は首を振りました。

 山田も意図を察してくれて「じゃあ、インハイ直球ね」とサインが決まった。僕としては、カウント有利だったので、インハイで上体を起こして、最後に外角シンカーのイメージでした。

 広沢さんはインコースに弱点がありました。けど、ボール一個、間違えると大好きなツボがある。そこに入ってしもたんですよ。

 多分、映像が残っていると思うけど、投げた瞬間にもう僕は頭を抱えている。やってしもたという感覚です。後悔しても遅いです。打球はもうバックスクリーンやからね。

 実はあの日、38度を超える高熱に見舞われてました。トレーナーに相談したら「お前、大丈夫か。投げられるんか?」と言われましたけど、そんなん優勝かかってる試合に投げない選択肢はない。どうしても投げますよと返事しました。自分でもその年のエースだと自覚してましたから。

 でも、この試合に負けてヤクルトに並ばれ、ウチは連敗して追い越された。そして、10月10日には甲子園で目の前でヤクルトの胴上げを見せられた。しばらくぼうぜんですよ。ベンチからロッカーに戻れんかった。来年頑張るぞも、クソも何にもない。夢なら覚ましてほしかった。

 しかし、92年になぜ阪神があれだけ戦えたのか。次回はその背景をお話ししたいと思います。

 

 ☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。