【無心の内角攻戦(26)】広島では1年で自由契約。成績を残すのがプロの世界だけど、若手の切り替え方針となると、監督もそれに従わないといけないところもある。2000年当時の僕は34歳。25試合に投げて2勝2敗6セーブと前半戦にはいけたけど、夏前に二軍に落ちてそこから上がることのないままに退団になりました。

 なんか中途半端で、このまま終われない。僕は近鉄を含めていくつかの球団のテストを受け、最後に受けたオリックスが獲ってくれたんです。入団テストって心身ともに削られてほんと疲れます。1日しかないから全神経をそこに持っていき、残っても1人でしょう。当時はトライアウトを受けるより、直接テストを受けに行くのが主流でした。

 オリックスは最初、枠が厳しいからテストはしないということでしたが、とりあえず神部年男投手コーチに呼ばれて神戸の秋季練習に3日間、行ったんです。オリックスはその年のドラフトで10人を獲る予定だったらしく、それがなぜか9人になり、枠が空いた。それで神部さんにまた呼ばれ、僕を獲ってくれることになったんですね。テストでは全然動けていなかったけど、ドラフトが1人減り、仰木彬監督が拾ってくれたんです。もう給料なんか何も関係ないですよ。

 近鉄で一緒にやってきたというのがあるんですかね。仰木さんって元近鉄の人たちをかわいがっているでしょ。吉井理人さんなんか、04年にクビになったのに近鉄との合併で仰木さんが監督に再任したらまたテストを受けさせ、契約ですからね。考えられないでしょ(笑い)。やはり10・19や優勝を一緒に戦った教え子たちへの思いがあったんじゃないでしょうか。僕もその中の1人だと思うし、すごく助けていただいた。あの人でなかったら最後の2年間はなかったし、34歳で引退していたと思う。巡り巡って仰木さんのところに戻ってきた感じですよ。

 仰木さんとは1992年に近鉄を退団されていたので9年ぶりになるわけですけど、変わってませんよ。僕が年を取っていると思われて「ポンスケ、お前、守備うまくなったな」とか(笑い)。ポンスケって僕のことです。若いころのイメージがあるんですね。投ゴロが捕れないって試合後にまだお客さんいる前で居残りノックをやらされたこともありましたから。

 その年は先発はなくて中継ぎで47試合に投げた。行くとこもない状況で獲ってくれて、仰木さんのためにやるしかない。ぶっ壊れてもやり切るしかない。中継ぎは毎日ブルペン入って本当きつかったですよ。広島でも少し経験させてもらったけど、今までで一番きつかった。

 仰木さんはシーズン終盤になると「おい、インセンティブはどうなっとんや」って。「あと何イニングです」。そんな契約のことまで気にかけてくれ、クリアできるように配慮してくれた。その仰木さんがオフに辞められることに…。

 ☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。