高校野球の名将、帝京・前田三夫監督(72)が、今夏の東東京大会を最後に勇退した。そこで思い出したのが2年前、スポーツ総合雑誌『ナンバー』の取材で「いつまで監督を続けますか」と質問した時のことだ。

「私もそろそろ引き際を考えています。もう70歳ですから。高校野球もどんどん変わってるし、若い連中もいます。いつまでもダラダラとやっていてもダメですから」

 前田さんがそう明かしたのは2019年7月23日。東東京大会の準々決勝でノーシードの日大豊山に敗れた翌日だった。それも失策による0―1の惜敗だっただけに、悔しさを引きずっているのではないかと懸念していたが、思いのほか淡々とした表情だった。甲子園では通算51勝、優勝は春1回、夏2回。思い出深い大会を尋ねると「やはり初優勝した平成元年(1989年)夏」と返事が返ってきた。

「あの年はのちに巨人に行った吉岡(雄二)、ロッテが獲ってくれた鹿野(浩司)をはじめ、大型で力のある選手がそろっていました。それまで2度、春のセンバツで2度決勝まで行って敗れている。だから吉岡たちが入ってくると、私から『おまえたちで優勝を狙うぞ』と常日頃から言い聞かせたんです」

 入学時の吉岡は内野手だったが、前田さんが投手に転向させ、エースに育て上げた。「将来はプロに行きたい」という吉岡を「それなら投手の方がドラフトで指名される確率が高くなるぞ」と説得したそうだ。

 これ、実際は「転向」ではなく「復帰」だった。「吉岡は中学で投手をしていましたが、右ヒジが曲がったために内野手に転向していた。それ以来、右ヒジは曲がったままでしたが、その腕でスライダーを投げると、すごいキレが出る。そこで高1秋から本格的に投手をやらせたんです」

 吉岡は89年夏、全5試合に先発し、3完封を記録して失点は1。その年の秋、ドラフト3位で巨人入りすると、90年に右肩を手術し、92年から内野手に「復帰」した。

 前田さんはさらに阪神・原口文仁、日本ハム・郡拓也ら内外野の選手を帝京在学中に捕手にコンバート。彼らもその適性を認められてプロ入りを果たしている。

「コンバートは積極的にやりましたね。選手の潜在能力が見たいから。私は、そんなふうにいろんなところをやらせて、可能性を見つけるのが好きだったんですよ」

 高校きっての名将はまた名伯楽でもあった。

 ☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。