【無心の内角攻戦(19)】黄金時代の西武は強かった。打つから強いというのでなく、ノーヒットでも1点取って訳がわからないうちに負けている。接戦になると勝てないし、接戦に持ち込まないと勝てないし、投手もいいので、2点取られたらきついみたいな雰囲気がありました。いくらウチの打線がすごいといっても日本ハムやロッテと違って難しい。

 1988、89年の僕は怖いもの知らずで、600万円プレーヤーが1億円プレーヤーに立ち向かっていきました。得意にしていたシュートを振ってくれていたので、その時期の僕は西武にばかり当たるローテでした。ローテが崩れても西武だったんで「また西武か…」というね。

 打線には清原和博、秋山幸二さん、デストラーデという最強クリーンアップ。攻め方は3人を分け、秋山さんは上はダメで、インロー、清原は上。一発警戒で上か下かは頭に入れ、浮かないように投げていました。その2人に全球シュートという打席もありましたし、首を振っても捕手の山下和彦さんがシュートのサインですもん。もう徹底してしつこくいって、イメージを植え付けた。

 左のデストラーデにはチェンジアップとか遅い球。インサイドをファウルにすると、チェンジアップとシュートで攻めました。90年までいた左のバークレオもチェンジアップで攻め続けてずっとバットに当たらなかった。チェンジアップといっても空振り三振を取りにいっているわけではなくて、タイミングがずれてゴロになればいいくらいの意識。今みたいに動くやつじゃなくて、腕を振って真っすぐと同じ軌道で、球が来ないみたいなやつ。右打者には1球、左打者のデストラーデには2球使えるぞ、と権藤博投手コーチに言われていて、それで打ち損じてくれたらもうけもの。痛い目に遭わなかったですね。

 僕もまだ若いし、与えられたところを行くしかない。インサイド指令が出ているのでとにかく右打者には「突っ込んでいくこと」。それは秋山さん、清原だけではなくて石毛宏典さん、辻発彦さん、伊東勤さんにもそうだし、右打者にはひたすらインサイドを攻める。

 でも…だんだんそのシュートが通じなくなってくる。今まで振ってくれていたインサイドを振ってくれないんです。ボール球になるシュートを見逃され、最終的に外のボールを打たれたり…。それに僕は89年に優勝して、真っすぐをもっと速くしたい気持ちがあったので、逆に遅い球を投げられなくなっていたんです。シュートを見逃され、外のカーブが投げられず、スライダーを狙い打ち食らって…勝てなくなっていきましたね。

 近鉄は涙をのんだ88年が13勝12敗1分けで西武に勝ち越し、翌89年は優勝しても12勝14敗と負け越し、以降は95年まで負け越しが続きました。僕ら以上に打倒西武に燃えていたのは仰木彬監督でしたね。

 ☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。