【無心の内角攻戦(1)】プロ野球の歴史に残る1988年「10・19」の修羅場を経験し、翌89年に歓喜の優勝を成し遂げた元近鉄投手の山崎慎太郎氏(55)が、猛牛軍団の“伝説の死闘”の舞台裏を明かした。西武キラーとして黄金期の西武に立ち向かい、オリックスの天才打者・イチローをも封じ込めた。いてまえ先発陣の一角を担った右腕がライバルとの対決を振り返り、メジャー挑戦した野茂英雄の素顔、仰木彬監督、王貞治監督ら名将たちとの出会いを語る――。

 1988年は僕のプロ4年目、仰木彬監督に代わり、投げ始めた年でした。前年9月に初勝利して実質1年目のような立場でした。ベテランは減って若い選手が多く、僕より4つ上くらいの人たちで重なった時期です。僕は西武戦に使えるんじゃないか、ということでずっとローテーションに入れてもらえた。ローテを崩してでも西武戦。エースの阿波野秀幸さんと小野和義さんが中心にいて、若い僕とか加藤哲郎さん、高柳出己さんが間のカードに入っていくという形でした。

 あのころは天王山という試合はエースを持っていくし、いつも同じ投手が西武戦に行くんです。阿波野さん、小野さん、僕です。すごくはっきりしてましたね。西武は4連覇を狙ってきていましたけど、あそこを叩かないと優勝はない。どのチームもそうだから仰木さんはマスコミを通じて西武包囲網みたいなことを言ってましたね。打倒西武の気持ちはすごく強かったと思います。

 僕はまだ若いし、与えられたことを一生懸命やるだけですよ。ローテでは西武戦が主であとは日本ハムとか…。仰木監督は完全に相性でローテを組んでいたし、仰木マジックと言われるのはデータですからね。それで競ったところでどれだけ勝ちを取れるか。だから負けるときはとことん負けるし、それも計算していたし、ここで投手を使いたくないとか、先発を思いきり引っ張るとか。

 その年から投手コーチで来られた権藤博さんから言われた合言葉は「死ぬほどインサイド行くぞ」。それは投手陣全員に通達され「当ててもいいくらいどんどん行くぞ」と言うんです。僕はシュートを得意にしていたから右打者の内角をえぐれる。だから捕手の山下和彦さんのサインに首を振ってもシュートのサインが出た(笑い)。西武の秋山幸二さん、清原和博は全球シュートとか、それくらい行ってたし、何人もぶつけてますよ。わざと当てているわけではなくても勝手に当たってしまう。

 清原、秋山さんには怖い打者だけど、向かっていく気持ちの方が強かったですね。給料もまったく違うし(笑い)。僕はまだ600万円くらいで、向こうは億ですよ。やられてもともとくらいの感覚だし、権藤さんも行けと言うし、当てても何かあったら俺が責任取ったると。あのころの投手陣はみんな行ってますよ。今みたいに3位までに入ればいいという時代じゃなく、西武を叩かないと優勝できないですからね。

 シーズンは西武が首位を走り、近鉄が終盤にものすごい追い上げを見せました。僕の中では優勝どうこうよりも自分が投げるときにどれだけ「おりゃ~」って行けるか。普段は硬くならないけど、緊張感の中で勝つことしか考えていなかった。そんな中で「10・19」に入っていったんです。

 ☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。