【加藤伸一連載コラム】18歳から野球を仕事にして37年…学んだのは「人の縁」

2021年07月22日 11時00分

九州三菱自動車では投手コーチとして息子の大貴さん(右)も指導する

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(最終回)】ゴールデンウイーク明けから始まった当連載もいよいよ最終回を迎えました。最後はもちろん、僕の現役最終年でプロ野球界にとっても激動の年となった2004年の話です。

 4月下旬から先発ローテーションの一員として7試合に投げましたが、2勝3敗で防御率5・77と振るわず、そうこうしているうちに衝撃的な記事が新聞をにぎわせました。6月13日に明るみに出た近鉄とオリックスの合併です。小林球団社長からの事情説明の後に、梨田昌孝監督が「申し訳ない」と言って泣き崩れたシーンは今でも忘れられません。同時に「この先、どうやって戦うんだろう」との不安が脳裏をよぎったものです。

 先の見えない状況の中でチーム成績も振るわなかったことから、若手が積極的に起用されるようになり、ローテーションを外れてから登板機会が巡ってきたのは6月下旬と8月下旬の2度だけ。肩の状態もまずまずで、球速も最速146キロとか出ていたため、まだまだいけるという手応えを感じていましたが、同時に「ひょっとしたら」という危機感もありました。

 不安が現実となったのは9月に入ってから。編成担当者に呼び出され、藤井寺球場の一室で戦力外通告を受けました。FA権を行使して入団した際に、都ホテル大阪でワイングラスを傾けながらフレンチのフルコースをいただいたのとは実に対照的で、球団が消滅してしまうことから“FAあるある”のコーチ職を用意されることもありませんでした。

 最後に一軍から声がかかったのは4万8000人の大観衆が詰めかけた9月24日の近鉄としての本拠地最終戦。梨田監督の配慮で6回から2番手で1イニングを投げさせてもらいました。9球で三者凡退に仕留めて無失点。それが現役として最後の投球になりました。目標の100勝まで残り8勝だったため、新球団の楽天への移籍も模索しましたが、それもかないませんでした。

 まだまだやれる自信はあったので、後悔がないと言えばウソになるでしょう。しかし、自分にできる精一杯のことはしてきたし、やり切ったという満足感もありました。度重なる故障に泣かされながらも1984年のプロ入りから21年。我ながらよく頑張ったと思います。ダイエーを戦力外となってから足掛け9年に及んだ単身赴任中、2人の子供を育てながら家庭を守ってくれた妻には感謝しかありません。

 引退後は評論家を経てソフトバンクで一、二軍の投手コーチやフロント業務も経験し、現在は社会人野球の九州三菱自動車で投手コーチをさせてもらっていて、東福岡高―福岡大で野球を続けてきた息子の大貴まで投手としてお世話になっています。誰に似たのか故障が多く、戦力になれていないのは父としても指導者としても歯がゆいところですが、本当にありがたいことです。

 18歳から仕事として野球に携わり、今年で37年。山あり谷ありの“酷道”続きでしたが、いい人生を送ってきたという自負はあります。それもこれも周囲で支えてくださった人たちのおかげ。今後も「人の縁」を大切にして野球界に貢献していきたいと思います。=おわり=

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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