【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(39)】オリックス移籍1年目の1999年、春季キャンプからヒシヒシと感じたのは「やりにくさ」でした。理由は南海時代からお世話になってきた河村英文投手コーチの存在です。

 前年オフに広島を自由契約となり、複数球団からオファーが来た中でオリックス入りを決めたのは、英文さんから「一緒にやろう」と誘われたから。調整に関してとやかく言われることもなく、すべて「お任せ」にしてくれましたが、かえって気を使うことにもなりました。南海時代からの師弟関係であることは周知の事実で、べったりしていたらチーム内で浮いてしまうからです。

 実力社会のプロ野球といっても、コーチと選手は上司と部下のようなもの。この連載を読んでくださっている読者の方々にはサラリーマンも多いと思いますが、上司と特定の部下が昵懇の間柄だったら皆さんも面白くないでしょう。プロ野球の世界でも、そうした人間関係は同じです。

 お互いに家族を福岡に残しての単身赴任。神戸の住まいも近所で、食事や酒席に誘われることもしばしばありましたが、なあなあになってはいけないと基本的に“サシ飲み”は断っていました。相手は66歳のおじいちゃん。今になって思えば少しは付き合うべきだったとの後悔もありますが、34歳で新参者の僕は周囲の目を気にしてしまっていたのです。

 この年は春先に右肩の状態が上がらず、宮古島キャンプでは捕手を座らせての投球練習ができなかったほど。開幕二軍スタートで、一軍から声がかかったのは6月に入ってからでした。まずはリリーフで様子を見て、6日の日本ハム戦では4点リードの6回途中から4番手で登板し、3回1/3を1失点に抑えて10年ぶりのセーブをマーク。12日のダイエー戦からは先発に回りましたが、なかなか白星には恵まれませんでした。

 移籍後初勝利は7月9日の近鉄戦。決意のマウンドでもありました。それまでの4度の登板はいずれも週末で、12日のダイエー戦以外はすべてデーゲーム。英文さんからの「昔からデーゲームは良くない。中4日でもナイターの方がええやろ」とのアドバイスもあり、金曜日のナイターでの登板を志願しました。右肩に不安のある僕には賭けでもありましたが、それほど勝利に飢えていたのです。

 相手先発はオリックス戦11連勝中の左腕・小池秀郎でしたが、打線の援護にも乗せられて8回途中無失点。9回に3番手の徳元敏が最後の打者、古久保健二さんを中飛に打ち取った瞬間はヒジや肩にアイシングをしたまま、ベンチで英文さんに抱きつきました。あのとき66歳のおじいちゃんコーチが見せたうれしそうな笑顔は、今でも鮮明に記憶しています。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。