【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(28)】経験者にしか分からないかもしれませんが、肩痛というものは野球を続けていく以上、だましだまし、うまく付き合っていくしかありません。福岡移転2年目の1990年に「右肩関節周囲炎」でシーズンを棒に振った僕は、オフも筋力が落ちないようウエートトレーニングを続け、キャンプでも五分とか六分の力でコンスタントに投げていきました。

 1年も実戦から遠ざかってしまったので、マウンドの感覚を取り戻す必要もありました。91年2月にハワイ・カウアイ島と高知で行われたキャンプでは、新任の権藤博投手コーチとも相談しながら打撃投手、紅白戦登板とステップを踏み、3月半ばにはオープン戦3試合に登板。球数、投球回を少しずつ増やし、4月13日の西武戦で先発を託されるところまでたどり着きました。

 2年ぶりの一軍マウンドでは3本塁打を浴びて4回5失点と期待に応えられませんでしたが、中7日で臨んだ4月21日の日本ハム戦では7回2失点で550日ぶりの勝利投手に。「あきらめずに野球を続けてきて良かった」。8回から2番手で登板してプロ初セーブを挙げた斉藤学さんが戸惑うぐらい男泣きしてしまいました。

 東京ドームで流した涙には、いろんな思いが詰まっていました。地道なリハビリを支えてくれた球団のトレーニングコーチやトレーナー、外部の整体師の先生、この年のオフに生涯の伴侶となる妻の佐和美…自分の苦労よりも陰で支えてくれた人への感謝の気持ちで胸がいっぱいになってしまったのです。

 この91年は結果的に2勝しかしていません。しかし、シーズン序盤こそ“投げ抹消”で月2回だった登板ペースも8月以降は週1回となり、戦力として復活する手応えもつかみました。だからこそ結婚へと踏み切ったわけですが、運命とは残酷なものです。

 家庭を持って、さあこれからという92年の米ハワイキャンプで右肩に異変を感じ、高知での2次キャンプでも痛みが消えることはなく、紅白戦やオープン戦での登板もないままリハビリ組の三軍へ。右肩は試合どころかボールを投げることさえできない状態となり、僕は再び絶望の淵へと立たされました。

 野球を続けるのなら、同じことを繰り返していても同じ結果になるのは目に見えています。そうなれば選択肢は一つしかありません。6月に入ってから、編成担当としてフロント入りされていた前監督の杉浦忠さんに思い切って相談を持ち掛けました。「手術させてください」。再びプロの投手としてマウンドに上がれる保証などありませんでしたが、やるしかなかったのです。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。