【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(26)】昨年まで4年連続日本一のソフトバンクは、今や全ての面でプロ野球界をリードしています。選手層の厚さはもちろん、それを支えるフロントも含めたスタッフ、福岡県筑後市にあるファーム施設、どれをとっても他球団からうらやましがられるレベル。“南海育ち”の僕からしたら隔世の感があります。

 その源となったのが、1989年に南海ホークスから生まれ変わったダイエーホークス。建設費760億円ともいわれる日本の野球場では唯一の開閉式ドームに、豊富な資金力を生かした戦力補強…となるのは、ドーム元年の93年に根本陸夫さんが取締役専務兼監督として就任してから。福岡移転当初はあらゆる面で手探りの状態でした。

 当初の本拠地は平和台球場で、福岡ドーム(現ペイペイドーム)の対岸にあった西戸崎合宿所や雁の巣球場ができるまでは市営住宅が寮代わり。室内練習場はラーメンで有名な長浜に倉庫のようなものがあっただけ。2月のキャンプも福岡県福間町にあった福岡厚生年金スポーツセンターで始まり、吹雪や玄界灘から吹きつける寒風に震えていたと思ったら、2週目に常夏のハワイへ移動。しかもキャンプ地・カウアイ島の球場には室内練習場どころか、バックスクリーンすらないありさまでした。

 引っ越しやらマンションの契約などの諸手続きにも翻弄されるなど大変なことが多かった中、支えとなったのはファンの熱狂ぶりです。西鉄ライオンズが太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズと名前を変え、西武ライオンズとして埼玉に移転してしまったのは78年オフのこと。10年ぶりにプロ野球が戻ってきた喜びは選手にもヒシヒシと伝わってきたものです。

 世界的なファッションデザイナー、三宅一生さんがデザインしたベージュにダークグレイッシュブラウン(こげ茶色)のストライプが入ったユニホームで臨んだ89年は、個人的に最高の一年となりました。開幕3戦目、4月10日の日本ハム戦で7回途中3失点と粘って新生ダイエーの初勝利をマーク。5月半ば以降はコンスタントに白星を重ね、8月に3試合連続で完投勝利を飾ったころには新聞にも「真のエースへ」「新エース」「エース加藤」の見出しが躍るようになりました。

 終わってみれば初の2桁勝利となる自己最高の12勝。プロ6年目にして初めてチームの勝ち頭となり、オフの契約更改交渉でも保留で“粘り”を見せて78%増の3200万円を勝ち取りました。

 小学生時代の憧れの選手で、翌年から指揮を執ることになった田淵幸一新監督に早々と「開幕投手」を告げられるなど、すべてがトントン拍子。しかし、翌90年2月の春季キャンプで、僕は経験したことのない絶望を味わうことになるのです。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。