【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(25)】巨人の本拠地が後楽園球場から屋根のある東京ドームとなった1988年はプロ野球界にとって激動の年となりました。関西の老舗球団である阪急がオリックスに、南海がダイエーに身売りすることが決まったのもこの年です。

 ウワサはかねて耳に入っていました。ただ、入ってくる情報はメディアや人づてに聞くことばかり。何が本当なのかは分かりません。大分県出身で福岡が本拠地の西鉄で“神様”と称されていた稲尾和久さんがロッテの監督をされていた84~86年には「ダイエーがロッテを買収して福岡に移転するのでは」と、まことしやかに語られていたものです。

 周囲が騒がしくなったのは8月になってからでした。新聞紙上で本格的に身売りが報じられるようになり、当初は完全否定していた球団オーナーでもあった南海電鉄の吉村茂夫社長とダイエーの中内功社長が9月半ばにトップ会談に臨み、あれよあれよという間に福岡移転まで決まってしまいました。

 古くからの南海ファンは大反対でした。タレント・やしきたかじんさんが音頭を取って大阪球場の前で身売り反対の署名運動をしたり、テレビで「南海ホークスが南の空へ飛んでゆく!」と題して緊急特番が組まれたこともありました。不思議なもので身売りが現実味を帯びるにつれて球場に足を運ぶファンも増え、本拠地ラストゲームとなった10月15日の近鉄戦には満員札止めの3万2000人が集結。皮肉にも年間観客動員は91万8000人となり、27年ぶりに球団記録を更新することになりました。

 JRに南海、近鉄、阪神、地下鉄の御堂筋線、千日前線、四つ橋線が行きかう難波(なんば)駅と阪神高速1号環状線に挟まれた最高の立地に、野村克也さんや杉浦忠さんらスーパースターを擁して日本シリーズで宿敵巨人を苦しめた黄金期。長く低迷したことで球場に足を運んでくれなくなっただけで、ファンの数は多かったことを最後の最後に再認識させられました。

 チームだけでなく、ミナミという街にも愛着はあったので寂しい思いはありましたが、一方でダイエーへの期待が大きかったのも事実です。日本はバブル景気の真っただ中。資金力のある親会社になるのは選手にとっても歓迎すべきことだったのです。

 しかし、サラリーマンの皆さんの転勤と同様に引っ越しが伴う“異動”は一筋縄にいきません。僕は独身だったので身軽なものでしたが、それでもマンション選びや諸手続きのわずらわしさで、88年オフは練習どころではなかったように記憶しています。扶養家族のいる選手だったらなおさらでしょう。

 元号が「平成」へと変わった89年は期待と不安を感じながら、新天地の福岡で新たなスタートを切ることになりました。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。