【加藤伸一連載コラム】プロ5年目の1988年 復調の兆しもチームに大激震が

2021年06月18日 11時00分

入団5年目にはチームが危機的状況に

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(24)】まだ元号が「昭和」だった入団3年目の1986年、それまで比較的順調だった僕のプロ野球人生に暗雲が垂れ込めてきました。原因は右ヒジの「内側側副靱帯損傷」。倉吉北高時代に公式戦で3試合しか登板していなかったのに、プロになって先発、中継ぎ、抑えでフル回転。2年間で計67試合、264回1/3を投げたツケが右ヒジ痛という形になってしまったのです。

 当時の南海は財政面だけでなく、トレーニングや体のケアに関しても恵まれた環境ではありませんでした。すでに他球団では右ヒジのトミー・ジョン手術から復活したロッテの村田兆治さんが投球後のアイシングを取り入れていましたが、南海は「ヒジを冷やしてはいけない」との古い考えから依然として温湿布を推奨していたほどです。本拠地の大阪球場や中百舌鳥(なかもず)の二軍合宿所にはウエートトレーニング施設どころか鉄アレイすらなく、筋力強化といえば砂を入れた一升瓶や昔ながらの腹筋、背筋、腕立て伏せ…といった具合でした。

 選手にもトレーナーにも知識がなく、体の深いところに位置する筋肉(深層筋)の総称である「インナーマッスル」という言葉を知ったのは後になってから。今なら中学生や高校生でも当たり前のように体幹や肩関節などのインナーマッスルを効果的に鍛えて強化や故障防止に努めますが、そのあたりはプロ球団の中でも遅れていました。

 復調の兆しが見えてきたのは入団5年目。お世話になっていた中百舌鳥の合宿所を出て、同じ御堂筋線沿線の長居で初めての一人暮らしをスタートした年です。寮暮らしは何かと楽な面もあるのですが、門限に縛られるのが嫌で…。一軍の選手には夕食が用意されず、それでいて門限は深夜1時だったため、ナイター後だとゆっくりご飯を楽しむこともできなかったのです。

 この88年は杉浦忠監督の就任3年目。9月初めまで首位の西武に3・5ゲーム差とV争いを演じた87年は6月末まで二軍暮らしが続いて戦力になれなかったこともあり、何とかチームに貢献したいという気持ちもありました。実際、個人的には3年ぶりに規定投球回をクリアし、チーム3位タイの8勝をマーク。防御率4・54はリーグ24位と振るいませんでしたが、シーズンを通して先発、抑えでフル回転できたことは大きな自信となりました。

 一方で、チームに大激震が走ったのもこの年です。開幕7連敗でスタートし、直後の4連敗で泥沼にはまっていくと、かねてささやかれていたウワサに信ぴょう性が出てきました。「昭和」が終わろうとしていた時に、南海ホークスもまた長い歴史にピリオドを打つことになったのです。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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