【加藤伸一連載コラム】「養子にください」両親の前で担当スカウトが!!

2021年06月01日 11時00分

プロ入り後、筆者の勝利に喜ぶ杉浦スカウト(右)

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(13)】日本ハムを除く11球団から注目されるようになった1982年秋、僕は狂ったように練習をするようになりました。学校では倉吉西中時代からバッテリーを組んでいた捕手の森正広くんら同郷のチームメートをはじめ、相撲部や陸上部に在籍するクラスメートまでがノックや投球練習などのサポートをしてくれて、家に帰ってからも猛練習。今になってみれば「我ながらアホやな」と笑ってしまうような厳しいメニューを自らに課しました。
 雨が降ろうが雪が降ろうが休みなし。ランニングや山登りなどはかわいいもので、神社の階段を延々とうさぎ跳びで上がったり、鉄工所でもらってきた鉄パイプを担いでスクワットしながら近所を回ったり…。応援してくれていた母でさえ「世間体があるから、いいかげんにせい」と、あきれ返っていたほどでした。確かに鉄パイプを担いでスクワットする体の大きい高校生が夜な夜な出没するのだから、近隣住民も不気味だったことでしょう。

 でも、僕はうれしくて仕方ありませんでした。高校選びの決め手となったのは、倉吉北から甲子園にも出場してドラフト4位で阪急に入団した4つ上の矢田万寿男さんへの憧れから。甲子園出場の夢は絶たれたものの、その先のプロへとつながる道が見えてきたのだから、興奮を抑えられないのも当然です。

 11球団の中で最も熱心だったのが、南海ホークスでした。「転校しませんか?」と提案してくる球団や「ドラフト外での入団」をほのめかしてきた球団もありましたが、南海は僕の担当スカウトで、99年に勃発した野村沙知代さんと浅香光代さんによる熟女バトル“ミッチー・サッチー騒動”で時の人となった杉浦正胤(まさたね)さんに、伊藤四郎さんをはじめとした複数のスカウトが足を運んでくれただけでなく、最後には監督の穴吹義雄さんまでが直接出馬してくれました。杉浦スカウトに至っては両親を前に「うちには子供がいないので養子にください」と力説していたほどです。

 僕に対する南海の評価は2年生の段階でドラフト4位から6位ぐらい。最終的には3位とか4位で指名する構想だったと後になって聞きました。しかし、運命の83年11月22日、東京都千代田区のホテルグランドパレスで行われたドラフト会議の本番で、僕は栄えある1位指名を受けました。なぜ、甲子園を沸かせたスター選手でもない僕の指名順位が一気に一番上までジャンプアップしたのか? 実は僕のうかがい知れないところで運命のやりとりが行われていたそうです。これを僕は「トイレ事件」と呼んでいます。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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