【加藤伸一連載コラム】池田・水野にも負けてない!? 名刺が希望に

2021年05月28日 11時00分

甲子園で注目を集めていた池田高のエース・水野

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(12)】ちょうどこの原稿を書いているころ、甲子園球場では2年ぶりに選抜大会が開催されています。昨年は新型コロナウイルスの影響で大会そのものが中止となり、多くの選手たちが涙を流していました。夏も各都道府県で独自の大会こそ行われましたが、聖地での全国大会は中止。つらかったと思います。

 事情は違いますが、僕も倉吉北高では何度となく涙を流してきました。理由はいずれも上級生が引き起こした暴力沙汰。1982年9月、すでに引退していた3年生の野球部員が他校生と起こした乱闘事件では「1年間の対外試合禁止」という厳罰が下され、僕らは聖地への道を早々と絶たれました。それどころか、大学側から「倉吉北の生徒はいらない」と言われるなど卒業後の進路にまで影響が出たほどです。

 そんな惨状でも僕が野球を続けられたのには理由がありました。対外試合ができず、学校での練習しかできない状況の中で、プロ球団のスカウトがたびたび見に来てくれるようになったのです。

 今から40年近く前の話とはいえ、選手とスカウトが直接接触することはできません。しかし、練習を視察する際にはあらかじめ学校側に筋を通すので、そんな日は監督から「ピッチングをしろ」と言われたりします。スカウトの方々は僕のいない時間帯を見計らって両親のいる自宅を訪れることもあり、その都度、玄関には彼らの名刺が積み重なっていきました。

 きっかけは前にも書いた通り、同年7月の県大会で1学年上の鳥取城北のエース・小林誠さんをチェックしに来たスカウトの目に留まったこと。とはいえ、僕が公式戦で投げたことなど数えるほど。高校3年間の大半が「対外試合禁止」だった投手に、何でプロのスカウトが注目しているのか? 両親も不思議で仕方なかったようです。

 それこそ甲子園にでも出ていれば、他の同学年の選手と比べて、相対的な評価をすることもできます。当時だったら、池田高の水野雄仁や中京高の野中徹博と比べて直球はどうなのか、変化球の精度は上か下か…といった具合に。それなりに自分のボールには自信を持っていましたが、甲子園で活躍している選手と比べてどうなのかは、自分でもよく分かっていなかったというのが正直なところです。

 ただ、プロのスカウトが置いていった数々の名刺は目標を見失っていた僕に大きな希望をもたらしました。一枚一枚は縦55ミリ、横91ミリの紙っぺらにすぎませんが、すべて輝いて見えたものです。巨人、阪神、阪急…口角を上げて、いただいた名刺を球団別にまとめてみたら、日本ハムを除く11球団になっていました。僕が両親も心配するほどの“怪行動”をスタートさせたのも、このころです。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

関連タグ: