【加藤伸一連載コラム】悲しい悔しい出場辞退 でも1年生としては…

2021年05月20日 11時00分

社会人野球でも選手目線で指導する筆者(中)

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(7)】1981年夏、4季連続の甲子園出場を目指していた倉吉北高校に衝撃が走ったのは鳥取県大会の開幕前日、7月21日朝のことでした。毎日新聞の朝刊が「倉吉北高“野球留学”退部続く『リンチうけた』と一年生」との見出しでスクープ記事を掲載したのです。

 記事では「上級生が一年生部員に“リンチ”を加え」ていたことや倉吉署も「二十日から暴行、傷害の疑いで捜査を始めた」といったことが伝えられ「十九日までに十二人が“リンチ”などに耐えかねて退学、または休学している」と書かれていました。改めて当時の記事を確認してみると、校長のコメントも掲載されていたので、学校側は記事が出る前日の時点でこうなることは想定していたと思われます。

 今のように高校生の誰もがスマホを持っている時代ではありません。僕ら選手はそんなことになっているとも知らず、記事が出た21日も1学期の終業式に出席することなく、2日後に控えた初戦の米子高専戦に向けて練習していました。詳細までは覚えていませんが、翌22日の開会式に参加して優勝旗返還もしているので、大会には問題なく出場できると思っていたはずです。

 複数の記事を読み返してみたところ、学校側は鳥取県高野連に“ケツバット”による指導があったことを認めた上で“それ以上の暴力は決して行われたことはない”と釈明。県高野連は独自の処分をせず、日本高野連に報告し、日本高野連も学校側に反省を求めるにとどまり、倉吉北は予定通りに初戦の米子高専戦を迎える方向で話は進んでいました。

 事態が一転したのは22日の開会式後です。翌23日に僕らが初戦の舞台となるはずだった倉吉市営球場に向かうことはありませんでした。22日夜の段階で学校側が「出場辞退」という決断を下したからです。3年生にとっての最後の大会は1試合も戦うことなく終わりを迎え、初戦の先発を託されていた僕の公式戦デビューも消えてなくなりました。

 悲しいし、悔しいし、やりきれない…。ただ、こんな日が来ると想像できなかったわけではないし、むしろこんな日が来てくれないかと望んでいたこともありました。指導の名を借りた理不尽な暴力に、倒れるまで続けさせられるうさぎ跳びのような精神的苦痛でしかない練習の数々。当時の1年生なら誰しも一度は「誰か学校でも高野連でもいいから、この惨状をチクってくれ」と思ったことでしょう。

 おそらく学校側が出場辞退を選んだのは、一日でも早く事態を収束させたかったから。実際に倉吉北は2か月の対外試合自粛を経て、秋の鳥取大会にも出場しています。しかし、81年夏の騒動はその後に続く悲劇の序章にすぎませんでした。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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