【加藤伸一連載コラム】公立から勧誘あったが特待狙いで倉吉北「一択」

2021年05月13日 11時00分

倉吉西中3年夏は鳥取県中部地区大会を制した。3列目左が筆者

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(3)】小学生のころからプロ野球は好きで、テレビ中継もよく見ていました。といっても当時の“田舎あるある”で、コンスタントに放送されるのは巨人戦だけ。CS放送どころかBS放送もない時代で、パ・リーグの試合など年に1、2度、NHKで中継されるぐらいでした。

 自宅にはまだビデオデッキもなく、野球に限らず、見たい番組があれば家に帰るしかない。1974年10月14日、当時9歳だった僕は“ミスタープロ野球”こと巨人・長嶋茂雄さんの引退試合を見たくて、急いで学校から帰ったものです。

 そんな時代ですから、好きな選手の打撃フォームや投球フォームをまねようと思うなら、映像を目に焼き付けなければなりません。一瞬で特徴をインプットして、その通りに体を動かす――。これも遊びの中で野球を覚えていく一つでしょう。

 ちなみに当時好きだった選手は巨人だと末次利光さん、柳田真宏さん、淡口憲治さんといった脇役的な方々。巨人戦で活躍する選手も好きで、のちにダイエーで監督―選手の立場になる阪神の主砲・田淵幸一さんやラインバック、ブリーデンの助っ人勢が推しで、1袋30円だったカルビーのプロ野球チップスでそうした選手たちのカードが出ると喜んでいました。

 そんな楽しい小学校時代を経て、地元の倉吉西中学校に進学すると当然のように野球部の門をたたきました。やはり小鴨小と同様に和気あいあいとしたチームで、例えるなら日本では76年12月に公開された米国映画「がんばれ! ベアーズ」。残念ながらテータム・オニールが演じたアマンダとの出会いはありませんでしたが…。

 1年生のときは外野や三塁もやり、2年生になるとエースと呼ばれる立場になっていました。3年夏には鳥取県の中部地区大会で優勝。県大会では1回戦負けしてしまいましたが、スコアは0―0で敗因はジャンケン。こればかりはどうしようもありませんでした。

 当時の僕は球威、球速があった上にコントロールもよく、カーブにも自信がありました。地元ではそこそこ目立った存在で、3つの公立高校から“お誘い”も受けていたほどです。しかし、自分の中では甲子園の常連校となっていた倉吉北高校の「一択」でした。何より私立校で「特待」での入学が望めるからです。
 4つ上の兄はすでに大学に進学していて、家計に負担をかけたくないとの思いも強く持っていました。進路相談の3者面談でも「野球で倉吉北に行きたい」と主張しました。その後に地獄のような日々が待っているとも知らずに…。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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