驚異の新人“悪太郎”堀内恒夫が泣いた夜

2021年05月02日 10時00分

甲府商業時代の堀内

【越智正典 ネット裏】中学野球の調査が終わった巨人スカウト沢田幸夫は、今度は高校野球と、昭和40年春、甲府商業の練習を見に行った。ネット裏のファンは熱かった。あとでたのしみが少ない町なのがわかった。校門を出ると甲府の名産水晶の店々。この頃はもう、メキシコから原石を取り寄せて研磨、細工専門になっていた。一番の大手の「菅沼水晶」の社長、菅沼八十八郎さんが野球部後援会長で監督なのである。待てよ、稀な例である。沢田は菅沼を訪ねた。

「校長の三橋不二夫先生に監督をやってくれないか、と頼まれましてねえ」

 応接室に案内されたとき、沢田は感嘆した。何ひとつ、記念球などが飾られていなかったのだ。菅沼の背広のエリにロータリークラブのバッジだけが光っていた。社会奉仕のロータリーアンである。菅沼の人間の幅と奥行きが思われた。すぐに打ち解けて話がはずんだ。沢田にとって菅沼は明治大学の先輩なのがわかったのだ。不思議なアヤである。

「堀内には1日に何百球も投げさせておりません。巨人に入れてもらえるのでしたら、3年か、4年目くらいに本当の肩が出来てくると思います。そのときに甲府から全国に打ち上げる花火になってもらいたいです」

 沢田は堀内を明大の練習に連れて行った。監督島岡吉郎にレギュラーバッティングに投げさせて下さいと頼んだ。“御大”は明治OBの教え子と聞いて承諾した。堀内はこのとき明大2年生だった高田繁(浪商、巨人)を三振に打ち取った。

 41年の巨人二軍キャンプが宮崎県延岡で始まった。ピッチング練習。球は速かったが全球高い。

 コーチ、北川芳雄(佐原一高、日本ビール、国鉄、巨人)が「これでいいんだよ。1日に1センチ、低くしていこうね」。

 このとき、その41年の巨人一軍投手団は壊滅状態だった。40年の20勝コンビ、宮田征典、中村稔が故障。40年に加入の金田正一はヒジを痛めていた。城之内邦雄だけでは戦えない。監督川上哲治が決断した。

 41年4月13日夜、名古屋から菅沼に堀内から電話がかかって来た。

「先生、大変です! あした中日戦に先発です。どうしたらいいですか」

 菅沼が颯と答えた。

「審判のプレーボールがかかったら第一球を思いきり速い球でバックネットにぶつけろ! みんなおったまげるぞ」

 菅沼が打ち上げた花火の第一弾である。4月14日、9対2。初登板初勝利。それから13連勝。23年阪神御園生崇男以来の新人開幕連勝タイ記録である。沢田の殊勲である。

 堀内は16勝2敗で新人王――。が、8月2日、中日球場での中日巨人14回戦9回裏二死満塁。中日の新人広野功(慶応大)に逆転サヨナラ満塁ホームランを中堅に叩き込まれた。5対7。宿舎に引き揚げるバスに乗ると堀内は声をあげて泣いた。捕手森昌彦(祇晶、西武監督)が「泣くな。泣けるうちはまだ幸福や」。森のすすめで、堀内が大きなノートに試合日記を書くようになったのは、このときからである。名選手たちは深夜、ノートに向かってもう1試合戦っている。森昌彦、王貞治、江藤慎一、有藤通世…がそうだ。=敬称略=

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