【東スポは見た スポーツあの日あの時】プロ野球は予定通り、3月26日に各地で開幕した。昨年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で開幕が6月までずれ込んだだけに、ファンにとってはひと安心といったところか。

 開幕シリーズといえばやはり特別な空気が漂うものだが、1990年の巨人―ヤクルト2連戦(4月7、8日=東京ドーム)は今も忘れられない。巨人が2試合連続サヨナラ勝ちを収めたことに加え、試合内容もまさに“想定外”の連続だったからだ。この年の開幕カードは土日の2連戦となり、本紙は日曜休刊のため月曜の9日発行紙面で2試合まとめて報じている。

 まずは開幕戦。1―3の8回一死二塁、篠塚利夫(現・和典)の打球が右翼ポール際へ。飛距離は十分ながら、誰の目にもファウルに見えた。しかし、一塁塁審の大里晴信審判は腕をグルグル回して「ホームラン」とジャッジした。

 まさかの同点弾にお祭り騒ぎの巨人ベンチとは対照的に、ヤクルト・野村克也監督は大激怒。初の開幕投手を任された内藤尚行は何やら絶叫しながら、グラウンドに崩れ落ちる。野村監督は抗議するが、判定は覆らず、結局、延長14回、山倉和博が押し出し四球を選んで巨人がサヨナラ勝ちを収めた。以下、本紙掲載記事から抜粋。

「連覇を狙う藤田・巨人は延長14回の末に開幕戦をモノにして白星発進。しかも、8回裏の篠塚の右翼ポール際のファウルが本塁打と判定されて、拾いものの1勝をもらったのだから笑いが止まらない。打った篠塚さえ『ホームラン? それは聞かないでよ』と暗にファウルを認めたくらいの当たりだった。収まらないのは野村監督。規定通りの5分間の抗議で渋々引き揚げたものの、一晩眠っても怒りは消えなかった。『明らかにミスジャッジだ。ワシの座っていた位置から真っすぐや。あんなヘボな審判は使ってほしくない』と頭から湯気をあげたものだった」

 こうしたことが起こり得るとの声が、実は開幕前からあった。この年からセ・リーグは右・左翼の両線審を廃止し、審判4人制に変更したからだ(※パ・リーグは96年から)。

「阪神・中村監督は『4人になったらああいう結果になるのはわかっていた。リーグの人員削減みたいなものだからね。あすは我が身だ。5分間の抗議じゃあきらめつかないし、本当に気が気じゃない』」(抜粋)。ホームランか否かのビデオ判定は、まだ遠い未来の話。阪神・中村勝広監督が抱いた不安はもっともな話だった。

 8日の第2戦もめったにない結末を迎える。延長12回、8回から2番手で登板し、5回無失点と力投していた木田優夫が、なんと左翼席へサヨナラホームランを放ったのだ。

 この年、中牧昭二の暴露本「さらば桑田真澄、さらばプロ野球」がきっかけとなり、エース格の桑田真澄が開幕から1か月の謹慎処分となった。この事態に若手の木田は奮起。開幕直前、出番が増えることを想定して「チャンスですね」とひそかに燃えていた。若手の活躍はチームの活性化につながる。この勢いで、開幕2カード目の阪神3連戦(甲子園)も2勝1敗と勝ち越した。

 その阪神戦の初戦で三塁塁審を務めた大里審判は、本紙の取材に応じ「巨人だからあんなジャッジをしたんだろう。どうせお前らは巨人の味方だ」「どこに目をつけているんだ。もう辞めろ」といった抗議や嫌がらせの電話が多数かかってきていることを告白。「私も家の者も参っている。でも間違いを犯してはいけないのがプロだから(嫌がらせは)甘んじて受けます。我々の宿命と思っています」(11日発行紙面から抜粋)と胸の内を明かした。

 この試合、巨人の打者が左方向へファウルを打つたびに、観客席から「おい、大里、ホームランちゃうんか!?」といったヤジが飛んだのを本紙記者は聞いている。

 大里審判は結局、開幕戦での判定がもとでシーズン途中に異例の二軍降格となり、この年限りで引退して審判指導員に転身した。

 巨人は4月終了時、14勝5敗で2位・大洋に2・5ゲーム差の首位。最終的に88勝42敗、2位・広島に22ゲーム差という独走でリーグ連覇を果たした。2年連続20勝の斎藤雅樹を筆頭に、桑田と宮本和知がそれぞれ14勝、木田が12勝、香田勲が11勝をマークするなど投手陣の充実ぶりが際立った。

 ところが、西武との日本シリーズは一つも勝てないまま惨敗。藤田元司監督は「全ては私の責任」と選手のせいにはせず、選手会長・岡崎郁は「野球観が変わった」と完敗を認めた。審判の“アシスト”で始まった一年は、屈辱まみれという形で幕を閉じた。(敬称略)