【伊藤鉦三連載コラム】伝説の「10・8決戦」高木監督が郭源治を登板させなかった裏に…

2021年04月02日 11時00分

辞任会見に臨む高木監督(1995年6月2日)

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(12)】1994年の中日は首位・巨人に最大10・5ゲーム差まで離されたのですが、9月に入ってから9連勝するなど快進撃。残り4試合でついに巨人と同率首位に並びました。

 こうなると名古屋の街はもう大騒ぎです。いや、名古屋だけではありません。巨人が優勝するのか、中日の大逆転Vなのかと日本中が異常な盛り上がりを見せました。そして129試合目が終わった時点で中日と巨人は69勝60敗で並び、10月8日の最終戦で直接対決。勝った方が優勝するという伝説の「10・8決戦」を迎えたのです。この試合の視聴率は関東地区で48・8%、名古屋地区では何と54・0%(いずれもビデオリサーチ調べ)を記録したという日本プロ野球史に残る一戦でした。

 10・5ゲーム差を追いつき、しかも地元・ナゴヤ球場での直接対決。勢いは完全にドラゴンズにありました。ところがです。試合前のベンチである関係者がこんなことを言ったのです。「今日の試合、(郭)源治が点を取られたら防御率のタイトルが取れなくなるよ」。残り1試合の時点で郭源治は巨人の桑田と斎藤をほんの少し上回って防御率トップでした。しかし勝てば優勝という試合です。個人のタイトルなんてどうだっていいじゃないですか。腕が折れても投げなきゃいけないゲームです。その場に高木監督はいなかったのですが、その関係者は高木監督の腹心ともいうべき存在だっただけに何か胸騒ぎがしました。

 すると予感的中。この試合で高木監督は先発の今中が4回5失点で降板した後、防御率トップの郭源治も、2年連続最多勝の山本昌もマウンドに送ることはありませんでした。5回、2番手の山田喜久夫が松井秀喜にライトスタンドへホームランを叩き込まれ、2―6となったときにベンチの熱が一気に冷めていったのを今でもしっかりと覚えています。

 対照的に巨人の長嶋監督は「国民的行事」と呼んだ大一番でもショーマンでした。槙原―斎藤―桑田の3本柱を惜しみなくつぎ込んで中日打線の反撃をストップ。結局ドラゴンズは3―6で敗れ、奇跡の大逆転Vは幻と消えてしまいました。

 高木監督はシーズン中と同じ采配をしたのだと思います。ただ、今中に代わってマウンドに上がったのが山本昌だったら…、郭源治だったら…。きっと中日ベンチの雰囲気は変わっていたはずです。

 10・8決戦に敗れたことで高木監督は辞めるつもりだったそうです。でも試合後、選手会長の川又や仁村弟らが監督室を訪れて「監督辞めないでください。来年こそ優勝しましょう」とお願いしたのです。やっぱり高木さんは選手からも慕われていたんですよ。それで思いとどまったんです。

 高木監督は翌95年のシーズン途中で監督を辞任。2012年から2度目の中日監督となり、この年2位でクライマックスシリーズに進出しました。ファイナルステージで巨人に初戦から3連勝して、あと一つ勝てば日本シリーズ進出というところまでいきましたが、そこから3連敗。結局、一度も優勝することはできませんでした。

 昨年1月に高木さんは急性心不全のためお亡くなりになりました。誰からも愛されたミスター・ドラゴンズ。一度でいいから高木さんの胴上げが見たかった。ドラゴンズの関係者みんながそう思っているはずです。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2005年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

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