【赤坂英一 赤ペン!!】 巨人・若林は原監督が開幕スタメンに起用した12人目の二塁手だ。監督歴15年で12人目だから、毎年のように代えていることになる。

 裏を返せば2002、03年の仁志以降、不動の二塁手が現れていない証拠とも言える。開幕スタメン12人中、原監督が2度以上起用したのは仁志、脇谷、吉川尚の3人。原監督が今年抜てきした若林は2試合目で右太モモを負傷して途中退場。セカンドには吉川尚が返り咲いた。

 過去12人のうち、最も出世した“元二塁手”は坂本である。08年、大型遊撃手として育てられていた2年目の坂本を、原監督は開幕前日「8番・セカンドでスタメンに入れる」と言いだした。坂本はキャンプでろくにセカンドの練習などしてなかったから、これには当時の首脳陣も驚いた。

 ところが、その開幕戦で正遊撃手の二岡が右足を故障。原監督は即座に坂本をショートに回し、第2戦は同じショートでスタメンに入れる。結果的に、原監督のスタメン起用が今日の坂本をつくったと言ってもいい。

 いったいなぜ「セカンド・坂本」だったのか。一見、唐突な決断の背景には、原監督がルーキーだった1981年の開幕戦における自分の起用法があった、と推察する。原ものちの定位置サードではなく「7番・セカンド」で開幕スタメンに名を連ねていた。

 原は高校、大学と一貫してサードを守り、80年秋のドラフト1位で巨人入団。「4番・サード」の先輩・長嶋監督が解任されたばかりとあって、「ミスター2世」と期待された。が、当時の三塁は人気者の中畑が守っており、藤田監督は新人の原を慣れない二塁に回さざるを得なかった。

 その1か月後、中畑が相手走者と接触し、左肩を脱臼。藤田監督はすぐに原をサードに回し、次の日の試合でスタメンに入れた。藤田氏は生前、当時の思い出をしみじみと語っていたものだ。

「原がサードに入ると、途端にスタンドが大きくどよめいたんだ。ファンはみんな、原がサードを守るところを見たかったんだな、と思った。あのお客さんのどよめきは、忘れたことがないよ」

 原監督もまた、観客の反応を常に気にしているはず。セカンドを毎年のように代えているのは、スタンドからいまひとつ大きなどよめきが聞かれないからかもしれない。

 ☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。