【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(10)】私をドラゴンズに誘ってくれた星野監督ですが1991年シーズンで監督を辞任。92年から指揮を執ったのが高木守道さんでした。名球会入りも果たしたドラゴンズ生え抜きの大スターです。

 高木さんは瞬間湯沸かし器のようにキレやすいという噂を聞いたことがありましたが、決してそんなことはありませんでした。勝っても負けても表情にあまり出さない。選手にあたることはありません。何かあっても後に残ることがない。そして星野監督と同じように裏方やスタッフを大事にする人でした。94年にアリゾナのピオリアでキャンプを行ったときには、高木監督がスタッフのゴルフ代すべてをポケットマネーから出してくれました。

 高木監督1年目のシーズンは故障者が続出したこともあって最下位。でも2年目の93年には野村ヤクルトと激しいV争いを繰り広げました。このとき大車輪の活躍をしたのが今中慎二と山本昌のダブルエースです。150キロ近い速球と大きなカーブのコンビネーションで相手打線をねじ伏せる今中と抜群のコントロールで打たせて取る山本昌。2人が投げたときはとにかく安心して見ていられました。この年は今中と山本昌がともに17勝で最多勝、さらに最多奪三振と沢村賞を今中、最優秀防御率を山本昌と2人のエースがタイトルを総なめにしたのです。

 山本昌のストレートは134~135キロでプロの投手の中でも極端に遅かった。でもボールの回転が違うんです。伸びがある。134キロのボールでも相手打者を詰まらせることができる。本人も「ボールは速さじゃないよ」と言っていましたが、打者を打ち取るコツを覚えていたんでしょうね。

 あるとき落合博満がこう言ったんです。「俺も長い間野球をやってきたけど、セ・リーグの中で立ち上がりが一番いいのは山本昌だよ」。斎藤、桑田、槙原(いずれも巨人)、川崎、伊東(いずれもヤクルト)、湯舟(阪神)、野村(横浜)、川口(広島)ら各チームのエース級と対戦して、いつもファーストのポジションから一番間近で山本昌の投球を見ていた落合が認めるほどですから、とにかくその安定感は抜群でした。

 ところが優勝争いが佳境に入ったシーズン終盤にまさかのアクシデントが起こります。練習中に山本昌が右鎖骨を骨折して戦線離脱してしまったのです。ダブルエースの一角が不在となったドラゴンズは最後、ヤクルトに突き放されてV逸。つかみかけていた優勝を逃してしまいました。

 今思い返しても高木監督という人はあと一歩のところまでいくのですが、勝ち切ることができない。そういうツキのなさがありました。そしてその悲劇は翌年にも起こったのです。それが巨人・長嶋監督が「国民的行事」と呼んだあの「10・8決戦」でした。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2005年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。