教え子に深い愛情を注いだ原貢氏「野球は人間性」

2014年07月15日 17時30分

お別れの会で飾られた原貢氏の祭壇
お別れの会で飾られた原貢氏の祭壇

 巨人・原辰徳監督(55)の実父で、5月29日に78歳で亡くなった原貢氏(東海大系列野球部名誉総監督)のお別れの会が14日、都内のホテルで行われ、昨秋の本紙連載「原貢 ケンカ一代」で、貢氏の一代記をつづったノンフィクションライター・松下茂典氏らが参列した。厳しい一面がクローズアップされがちな貢氏だが、その一方では教え子たちに深い愛情を注ぎ、慕われた人でもあった。侍ジャパンの守護神として第1回WBCで胴上げ投手となった大塚晶文氏(42)もその一人。大塚氏が松下氏に、貢氏の知られざるエピソードを初めて明かした。

 大塚が原貢に初めて会ったのは、千葉の横芝敬愛高3年のときである。

「下宿先で猫と戯れていたら、車からいかつい顔のおじさんが降りてきたんです。それが東海大監督の原貢さんでした。ぼくが日本ハムからドラフト外で誘われていることを聞いたのでしょう。『東海大に来たら、いまの契約より8倍ぐらい大きな契約が取れる投手にしてやるぞ』といわれました。実際、その通りになったんですが、近鉄と交わした契約は、それ以上の10倍でした(笑い)」

 監督の貢は、優しさと厳しさの両面を持っていたという。

「大学3年の冬でした。右手人さし指が冷たくなり、病院で血行障害と診断されると、監督から『長崎に行くぞ』と言われ、気功の先生のところへ連れていってくれました。飛行機代も治療代も監督が出してくれたんです。厳しい面を強調されがちですが、素顔は優しい人でした」

 治療後、タクシーで空港に向かうと、貢は「長崎といえば、ちゃんぽんだ」と言い、運転手に「ちゃんぽんのうまい店に行ってくれ」と告げた。

「ところが、着いた先は全国チェーンのリンガーハット。監督は納得せず、空港に着くと、また店に入り、ちゃんぽんを2つ注文しました。先の店で完食し、10分もたっていませんでした(笑い)」

 結局、血行障害は回復せず、クリスマスの日に手術を余儀なくされた。

「すると、今度は『抜糸したら、すぐに投げろ』と言われ、びっくりしたんですが、冬場に投げ込んだおかげで、大学4年春のリーグ戦は最優秀投手賞を獲得しました」

 貢の指導法は理にかなっていたという。

「ぼくはコントロールが悪かったので、幅20センチの外野フェンスの上を歩かされました。バランス感覚を養うためです。トップの位置も定まらなかったので、耳の近くから投げるキャッチャー投げの練習をさせられました。そしたら、真っすぐがバチーン、スライダーがキュンと曲がるようになりました」

 プロ野球界で成功を収め、メジャーリーガーに転じた大塚は、第2回WBCが開かれた2009年春、サンディエゴで貢と再会。食事をしている。
「リハビリ中で、女房と子供たちを連れていきました。監督は『子供はお母さんに似る。目のよさ、体の大きさは遺伝するんだ。丈夫な子になるぞ』といってくれました。そのときの監督の優しい笑顔が忘れられません」

 最後に貢と話をしたのは今春、信濃グランセローズの監督に就任したときだった。

「そのとき『野球は人間性だぞ』といわれました。いまは監督業の孤独を感じる日々ですが、その言葉が支えになっています。いい結果を残して、天国の監督に報告したいと思っています……」=敬称略=

(松下茂典)

☆おおつか・あきのり=1972年1月13日生まれ。42歳。千葉市出身。右投げ右打ち。横芝敬愛高―東海大―日本通運を経て、96年のドラフト会議で近鉄の2位指名を受けてプロ入り。2年目の98年には守護神として35セーブを挙げ、最優秀救援投手に。02年オフにポスティング・システムでのメジャー移籍を目指すも入札球団はなく、中日へ移籍。03年オフにポスティングでパドレスと契約した。04年4月6日のドジャース戦でメジャーデビュー。セットアッパーとして活躍し、05年のチームの地区優勝に貢献した。レンジャーズへ移籍した06年は第1回WBCにも出場。侍ジャパンのクローザーとして胴上げ投手となった。07年に右ヒジを痛めFAに。トミー・ジョン手術を受けてリハビリを続け、13年にBCリーグ信濃に入団。同年オフに選手兼監督となった。

☆まつした・しげのり=ノンフィクションライター。1954年8月30日生まれ。石川県出身。明大卒。「新説・ON物語」(双葉社)、「松井秀喜 試練を力に変えて 5打席連続敬遠・20年目の真実」(ベースボール・マガジン社)など著書多数。近著に「ダルビッシュ有はどこから来たのか」(潮出版社)がある。

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