【藤田太陽「ライジング・サン」(33)】2009年途中に西武に移籍し、プロ野球選手として、戦力として必要とされることの喜びを知りました。試合に勝てば本当にうれしいし、負ければ眠れないほど悔しかった。そんな思いをできたことが幸せでした。

 その一方で若いころから酷使してきた右ヒジは限界にきていました。西武移籍2年目には自己最多の48試合に登板しましたが、それ以降は出番も減っていきました。

 12年オフには3年半在籍した西武から戦力外通告を受けました。このタイミングではヤクルトから声をかけていただき、2度目の移籍を経験しました。このスワローズのユニホームが僕にとってNPB最後となりました。

 実際のところ右ヒジはもうぶっ飛んでいました。03年にトミー・ジョン手術を受け、リハビリを経て復帰できましたが、このころに患部の靱帯は再断裂してしまっていました。日常生活にも支障をきたす状態でした。

 まず、右腕で車を運転できない。食事の際には箸も持てない。入浴時にシャンプーするのも左手。それでプロ野球の試合に登板するんだから、普通じゃありません。

 1週間のうちに3本の痛み止め注射を打って、さらにヒジにたまった水を抜く。このルーティンが欠かせないものになっていました。このシーズンは開幕を一軍で迎えることになりましたが、ヒジが痛すぎてキャッチボールも回避していました。

 それでいて、ゲームの時だけは準備して投げる。痛みに対しての耐性が強い方だとは自覚していましたが、むちゃでした。当時の伊藤智仁投手コーチに「さすがにそのヒジはあかんやろ。(状態を)戻してこい。それから夏場のしんどいころに戻ってきてくれ」と言われファームでの調整、療養?に入りました。

 言葉通り夏場以降に戦線復帰しました。このシーズンの数字を見ても夏場以降に20試合登板。勝敗なしの1セーブ、1ホールドで防御率1・93と内容も良かったんです。

 シーズンオフには右ヒジの再手術も計画しており、日取りまで決まっていました。でも急きょ、戦力外ということになりました。

 翌シーズンには34歳。年齢的な問題や年俸など、いろんな事情が絡んでいたようです。チームメートからは「どうしてクビなんだ」という声も出たそうです。

 必要としてもらえる。そういう声はうれしかったです。でも、同時にもう潮時かなとも思ったんです。戦力外通告を受けた後、オリックスから声をかけていただいたんです。でも、お断りして引退することに決めました。

 もう、ヒジの痛みと闘いながら投げることに心が耐えられなかった。家族も分かっていたと思います。僕のヒジの状態を全部知っているわけですからね。私生活ができない僕を。

 妻には「パパがいいなら(現役を引退しても)いいんじゃない」。そう言われました。そのタイミングで秋田の両親にも連絡を入れました。

 一般生活レベルが可能ならまだしも、あのままだと契約書にサインすらできない状態でしたからね。13年間のNPBでの現役生活はついに終わりを告げました。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。