【藤田太陽「ライジング・サン」(30)】2009年7月に阪神から西武へトレードで移籍することになりました。同月22日のオリックス戦で移籍後初登板。三者凡退のデビューを飾りました。

 そこからわずか2か月半で25試合に登板。2勝0敗4ホールド、3セーブの成績を残すことができました。

 移籍2年目の10年は自己最多となる48試合に登板。ブライアン・シコースキーにつなぐセットアッパーを任せられました。

 最終成績は6勝3敗19ホールド、防御率は3・91。4月末までは防御率0・00だったんですが、交流戦の横浜戦で故障し、1か月ほど戦線離脱してしまいました。

 足の故障だったため、下半身をうまく使えなくなり、相手打者に頭部死球を与えてしまい、その後は内角球が投げにくくなってしまいました。

 阪神時代の自分、不器用な自分、元の自分、きっちりやらないといけない自分を思い出してしまい「イップス」の自分に戻ってしまいかけていました。それでも、ソフトバンクと最後まで優勝を争ったシーズンを、チームの戦力として戦えたことは素晴らしい経験になりました。

 西武に移籍後、球団の方にこんなことを言われました。「ライオンズは個性を重んじる球団。右向け右でいる必要はない。自分のファンを獲得するためにどうするか。そのためにどう行動するかはお任せします。野球をしっかり頑張ってくれさえすれば、細かいことは言いません」と。

 阪神時代の自分から脱却するため、タイガースへの反発ではなく、以前の自分を思い切り変えたいと思い金髪にしました。マウンドでの姿勢、立ち居振る舞い、歩き方からすべてを変えました。

 真四角だった自分。阪神時代に死んだ自分を生き返らせるため、自分を演出しました。もちろん100%の準備をするという基本的なことは変えません。でも、それでも足りないほど準備をして、自分の心配を埋めることをやめました。

 当時の投手コーチだった潮崎哲也さんは「何をお前、細かいこと考えてるの? 自分の球を投げたらええやん。バッターの方が嫌やねんで。俺らはお前のことが欲しくて獲ったんやで」と言ってくれました。あの人の心臓には毛が生えています。同じことを渡辺久信監督にも言われました。

 自分らしく、自分を信じて投げる。それで結果が伴わなければ、マウンドに送り出した我々の責任だ。西武の首脳陣にはそういう接し方をしていただきました。その代わり、ちょっと引いた姿勢をマウンドで出すとすごく怒られました。

 セットアッパーとして起用してもらっている時です。ホームランを打たれてマウンドでぼうぜんとして「ああー」という顔をしたんです。そうすると渡辺監督から「そんな顔をするな。俺が選んだセットアッパー。チームの顔なんだ。その顔はチームの姿勢を示すものだからやめろ」と叱責されました。

 西武は強い野球を伝統的にやっているいいチームだなと思います。虎とライオンって似ていますけど、全然違います。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。