【藤田太陽連載コラム】西武移籍わずか2か月半で自己最多登板数を更新

2021年02月26日 11時00分

2009年のシーズン中にトレードで西武の一員となった

【藤田太陽「ライジング・サン」(29)】自分の在籍しているチームでどういう役割を求められているのか。それが分かるころにはチームから必要とされていないと感じてしまう。複雑な気持ちでした。

 9年目の2009年。ただ、投げるだけではなく、一軍ではこういう場面ではこう投げようと、チームに貢献できる方法を考えて投球していました。それでも、チャンスは訪れませんでした。

 ただ、誰かが見てくれていると信じて努力を怠りませんでした。当時、阪神の編成部長は黒田正宏さんでした。「腐ってちゃあアカンぞ。見ている人は見ているからちゃんとやってくれよ」と声をかけてくれていました。顔は怖いけど心のある野球界の先輩です。

 7月に入ると動きがありました。僕と西武の選手との間でトレードがあるのではないかと、一部のスポーツ紙で報じられもしました。でも、僕は直接には聞いていません。ほぼ同じタイミングで7月11日、西武・水田圭介内野手とのトレードが発表されました。

 僕はウエスタン・リーグの広島戦で由宇に遠征していました。そのまま翌日には所沢に行きました。阪神の真弓明信監督にもちゃんとあいさつもできないまま、バタバタでした。兵庫・芦屋の自宅もそのまま残して突然の転勤のような感じでした。

 阪神・黒田編成部長は西武のOBでもあります。当時、西武の監督だった渡辺久信さんの要望で、編成部員だったデーブ大久保(博元)さんと黒田さんが水面下で動いてくれていたようです。

 そこから一気に生活が変わりました。西武に移籍した7月中旬から残りのシーズンで、25試合に登板しました。イースタン・リーグではありません。パ・リーグ公式戦です。わずか2か月半で自己最多登板数を超えました。

 阪神は何を見ていたんだ?なんて言ってた阪神ファンはたくさんいたでしょうね。ただ、当時の阪神は投手に関しては飽和状態だったのでしょう。

 このシーズンの僕の西武での成績は2勝3セーブ、4ホールド、防御率2・00。最初はビハインドからの登板でしたが、徐々にチャンスを与えられ大事な場面でも投げさせてもらいました。阪神の二軍時代、僕が一軍のクローザーならこの場面でどう投げるかとシミュレーションしていたことが生きました。

 移籍後初登板は7月22日に本拠地・西武ドームで行われたオリックス戦でした。1―2とビハインドの8回の場面で先発・帆足和幸からマウンドを託されました。リードを許している場面とはいえ大事な局面です。打順も上位打線の2番・大引から始まるという簡単ではない状況でした。

 第1球のサインを確認する直前に、一塁を守っていた平尾博嗣さんが声をかけてくれました。平尾さんは僕と同じで阪神から西武にトレードで移籍し、活躍の場を広げた先輩です。「おう、ウエルカムライオンズ。見てみいや、スタンド。人おらんやろ。投げやすいやろ。こんなん、二軍の試合みたいなもんや。簡単に投げとけや」

 今ほどパ・リーグの人気は高くなかった時代です。実際、スタンドには空席も目立ちました。

 結果は2番・大引を右飛、3番・フェルナンデスを二ゴロ、4番・カブレラを3球で見逃し三振でピシャリ。上々のデビューです。この場面は今でもユーチューブで見ることができますよ。僕が緊張しているのも伝わります。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

関連タグ: