ヤクルトが21日に、OBの安田猛氏が20日に胃がんのため死去したと発表した。73歳だった。福岡県出身の安田氏は小倉高、早大、大昭和製紙を経て1972年にヤクルトに入団。独特なフォームの左サイドスロー投手として活躍し、現役引退後はヤクルトでコーチ、スカウト、スコアラーなどを歴任した。当時を取材した本紙番記者が安田氏をしのんだ。

【本紙番記者がしのぶ】小さな大投手という言葉が似合う豪快な人だった。20日に73歳で亡くなった元ヤクルトの安田猛さんは、「ペンギン投法」と呼ばれた変則左腕で王キラーとしても有名。記者がヤクルト担当だった90年代は、投手コーチや編成担当、スコアラーとして野村ヤクルトを支えていた。

 何度も酒席をともにし、雀卓も囲んだ。生ビールの大ジョッキを一気に飲み干し、麻雀の打ち方も豪快。「そら、あたれるものなら、あたってみろ!」と強気の打ち筋で、よくしゃべりよく飲みながらの楽しい麻雀だった。

 20歳以上も年下の記者にとって安田さんは、人気アニメ「がんばれ!! タブチくん!!」の「ヤスダ投手」のイメージが強かった。作中では超スローボールを操り、魔球を投げていた。そのため軟投派だと思い込んでいたが、本人いわく「オレはかわすピッチングは嫌い。自分では速球派だと思って投げていた。王さんにも強気に真っすぐで内角をついて抑えたんだ」とのことだった。

 ちなみに「タブチくん」は映画化もされたが、安田さんによると「謝礼? 映画の時に招待券が2枚送られてきただけだった」という。その後、「タブチくん」がパチンコ台になった時には、「1回飲みに行くくらいの額」をもらったそうだ。

 スコアラーとして、野村ヤクルトだけでなく、プロが参加したシドニー五輪の日本代表もサポート。データ分析とクセ盗みの技術で高い評価を得たが、安田さんは「ピッチャーを育てたい。またコーチがしたい」とよく口にしていた。

 ヤクルト退団後は、JR東日本で臨時コーチを務め、現オリックスの田嶋大樹投手などを指導。2016年12月からは母校の小倉高(福岡)で指導していた。安田さんと最後に会ったのは、19年7月に神宮球場で行われたヤクルトOB戦。末期がんの闘病中でかなり痩せていたが、豪快な笑い声は健在だった。「おう、久しぶりだな。またお前と雀卓を囲みたいよ。昔みたいに酒は飲めないけど、麻雀ならやれるからな。ガハハハ」。

 いつかまた、雀卓を囲みましょう。

(元ヤクルト担当・大沢裕治)