【藤田太陽「ライジング・サン」(18)】結果を出せずというか、プロの投手のレベルに達せず、苦しんだまま2年目を迎えました。その2002年シーズンでは7月後半になってようやく一軍に昇格しました。チームとしては監督が野村克也さんから星野仙一さんに代わって、1998年ドラフト1位の藤川球児と、僕を先発として積極的に起用してくれました。育ててやろう、育ってくれなきゃ困ると思って使ってくれたんだろうと思います。

 チャンスをいただいた結果、9月3日の広島戦(広島市民球場)でプロ初勝利を初完投で挙げさせてもらいました。こうして2年目の後半から球児と僕とローテで回してもらっていた間も実はもうヒジが自分のヒジじゃなかった。痛いまま投げ続けていました。

 痛いと言ってしまえばまた、入団会見から苦しんだあの4か月に戻るような気がして、痛みをこらえて意地でも投げていました。

 当時、捕手だった矢野燿大さん(阪神監督)や山田勝彦さん(阪神二軍バッテリーコーチ)が言ってくれていた配球とか、打者との駆け引きなんて分かっちゃいない。言われたとこにサイン通り投げるだけです。いわばマシンですよ。

 そもそも野球という競技をしていないんです。自分で考えないことにはゲームプランが立てられない。それなのに、ワケが分からないまま一軍で投げていると、結果の根拠がないままに投げてしまうという繰り返しでした。

 当然、結果を継続して出し続けることができずプロ入り直後は二軍生活が長くなってしまいました。ただ、二軍では逆にもともとの素材である身体能力があるばかりに3、4年とプロを続けていれば、圧倒的な数字を残してしまうことにもなるんです。

 そのころには自分で考えて、自分でちゃんとコントロールして根拠のあるアウトを取ることができるようになってくる。当時は木戸克彦さんや平田勝男さんが二軍監督でした。コーチ陣も含めてパッと見て、パッとこうしろああしろとは言わない。ずっと見てくれていて、ダメなら助言を与えてくれるスタイルでした。

 ドラフト1位だから即戦力じゃなきゃいけないという重圧には負けてしまったのですが、育成の場で自分で考えながら頑張れた二軍時代は、その後の野球生活にもすごく生きました。この時点ではまだ先の遠い未来の話ですが、西武に移籍した時に一軍の戦力として投げられたのは、阪神の二軍で必死にやった経験が間違いなく生きています。

 話を戻します。ようやく経験値と体力のベクトルが、うまくかみ合うようになりはじめていました。翌年の03年シーズンは星野阪神が18年ぶりのリーグ優勝を果たし空前の虎フィーバーとなります。開幕ローテをつかんだ僕は優勝に貢献したのか。残念ながらそうはなりませんでした。それどころか、野球選手としてグラウンドに戻れるかどうかの岐路に立たされることになります。

 このころにはまたヒジが痛くなった。結局、右ヒジを痛くさせているのは自分。痛くて一軍から外れるのも自分。なんでだろうと恨んでも、すべては自分の責任なんです。ヒジが痛いのは分かっていましたが、自らの意思で納得して右腕を振り続けました。03年の僕の成績は5試合で1勝2敗です。その5試合目に事件は起きました。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。