【藤田太陽「ライジング・サン」(16)】アマ時代に確固たる自信を持つことができないままプロ入り。社会人の3年間でもしっかり活躍できず、こんなのでドラフト1位が決まっていいのかという思いのまま、注目される立場となってしまいました。

 キャンプでは初日からフォーム変更を余儀なくされ、マスコミの洗礼も受けました。体にも増して精神的にも疲労を蓄積させていく毎日でした。もう、自分の中では完全に分からなくなっていました。

 本当に試行錯誤の末、アマ時代に二段モーションでのフォームを定着させ日本代表にまでなった。そしてやっとプロに入ってきて、今度は二段モーションを矯正しないと使わないぞと言われたら、21歳の若者はどうするでしょう。

 自分のフォームのバランスもしっくりこず、タイミングも取れなくて悩みました。もともと、一段モーションというか、一般的に普通の投げ方が合わずに二段モーションにしてきたわけです。でも、プロ野球の世界に人生賭けてきていますから、首脳陣に強制されればチャレンジしてしまいますよね。

 でも、当時の僕はここで柔軟にはなれなかった。しっかり話を聞いているフリでもして、それでもダメだから、やっぱり二段モーションに戻してみるかと言わせるように持っていくとか、そんな柔軟な対応はできませんでした。

 結果を残せる人はそこで結果残せたと思うんです。僕は頭も体も柔らかくなかったから、モヤモヤが反発になってしまった。「なんでや! ふざけんなよ!」としか思えなかったんです。マスコミの方々から取材をされても、心の中では「こんなに状態も悪いのに、調子もクソもないわ」と思っていました。

 さらに悪いことに、このころは右太もも裏も肉離れしていて、足は痛いわヒジも痛いし、フォームもワケわかんないしでどうしようもない状態になっていました。

 それこそ悪循環なのですが、痛みには強い方で、練習も実戦もやれない範囲ではなかったのでキャンプを離脱するほどではなかった。太もももテーピングでグルグル巻きにすれば、多少走れなくても普通のプレーはできちゃいました。でも、あれはよくなかったです。ちゃんと別メニュー調整しなきゃいけないでしょ。そんなのが1年目のキャンプでした。

 ただ、こういう話は結果を出していない人が言うと言い訳でしかないんです。だから、当時は言えなかった。でも、そのときに自分が持っていた感情とか、あんときもっとこうしておけば、もうちょっとうまくできたんじゃないかなとか。正解かは分からないけど、何かもっとやるべきことがあったんじゃないかと考えてしまいますね。

 今なら分かるんです。当時は真っすぐな気持ち、阪神のエースになるんだという純粋な思いしかなかった。フォームの矯正で悩んでいること、ヒジの痛みがあること、太ももの肉離れを隠して練習を続けてしまったこと。これは僕を見守って獲得してくれた佐野さんにしか言えなかったです。

 僕が入団したときの監督は野村克也監督です。球界のレジェンドです。阪神は球団の歴史でもほとんどなかった外様の監督を招聘しました。そういう事情は少なからず、チーム内の風通しにも影響をもたらすと思います。担当スカウトの口から、野村監督に「太陽はこういう状態だから、ちょっと様子を見てやってください」と言うのも言いづらかっただろうなと想像がつきます。

 少しずつの歯車の狂いを、圧倒的な実力で解決できない自分の力のなさ。もやもやしたまま、僕はキャンプからオープン戦、そして開幕を迎えることになってしまいます。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。