【ID野球の原点】全力プレーを要求するブレイザー 抜てきされた加藤博一は打率3割を記録した

2021年01月03日 18時00分

甲子園球場で指揮を執るブレイザー監督(中)
甲子園球場で指揮を執るブレイザー監督(中)

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(14)」野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)


「積極的な思考を持ち、常に激しくプレーしろ。ネバーギブアップの精神を忘れるな」。シンキングベースボールのイメージでとかく「頭脳派」のイメージが先行するブレイザーだが、その素顔は闘争心を最も大事にしていた熱血漢でもあった。

 彼の本名はドン・ブラッシンゲーム。メジャーでは右手中指を骨折しながらもプレーを続けた逸話などから「燃える(ブレイズ)男」として有名で、そうしてついた愛称が「ブレイザー」だった。だから選手に対しても「本当の野球は激しさの中にある」と常に全力プレーを要求した。

 1979年に阪神の監督に就任した時もそうだった。ブレイザーが前年に最下位に沈んだチームを立て直すため、まず「やれることをやろうじゃないか」と徹底させたのは全力疾走だった。

 実際、ある試合で主力選手が打球をのどにぶつけ「全力疾走ができない」と申し出たが、その後の打席でボテボテの内野ゴロを放ったところ、その選手は内野安打を狙って全力で一塁に駆け込んだ。「走ろうと思えば走れたんじゃないか!」。この一件でブレイザーはそれ以前の走塁を「怠慢プレーである」と判断した。そして、キャンプ前に通達していた通り、その選手には「全力疾走を怠った」という理由で試合終了後、罰金が科された。

 こんなこともあった。シーズンも終盤になって優勝も決まった後の最終戦。すでに規定打席に到達し、打率3割を維持する選手が2人いた。そこでブレイザーは選手の契約の問題もあるため、この2人に「試合に出たいか?」と聞いてみた。すると1人は「出なくてもいいのなら出たくない」と言い、もう1人は「とにかく試合に出してほしい」。ちなみに「出たい」と答えたのは佐野仙好だった。ブレイザーはとにかく「ポジティブ・シンキング」を持つ選手を信頼し、好んで試合に起用した。

 そのいい例が加藤博一だ。それまで加藤は無謀な走塁によるミスが多く、周囲の評価も低かった。だが、ブレイザーはどんな形でも試合に出たがった加藤の積極性を評価した。やがて加藤はブレイザーの指導により積極性を生かす判断力を身につけ、期待通りにレギュラーを獲得すると、翌80年には打率3割1分4厘でベストテン5位、34盗塁を記録した。大洋移籍後は「スーパーカートリオ」の一員として球宴にも出場した。

 監督就任1年目の79年は4位に終わった。だが、ブレイザーの戦術というより、精神的改革によって阪神のムードは確実に変わった。そして、その年のオフ、阪神はドラフトで早大の岡田彰布を1位指名で獲得した。=敬称略=


 ☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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